人気ブログランキング | 話題のタグを見る
永久の未完成これ完成: 羅須地人協会の「終焉」について
 賢治の花巻・羅須地人協会については、当時の社会情勢もあり、その真実の姿が見え難いことは否定できません。それだけに、解釈が色々分かれるし、さらに推量や憶測も加わり、そのためにまた羅須地人協会の真実の姿が見えなくなってしまう。賢治研究にとっては、まことに残念なことだと思います。研究の積み重ねにより、仮象が淘汰され真実の姿が残ることを期待しましょう。

 羅須地人協会のスタートについては、賢治が花巻農学校を退職してから、という点ではっきりしています。ただ1926年(大15・昭元)3月に退職し、下根子桜の宮沢家の別荘で賢治が生活を始めた時からでもいいし、準備を経て8月の正式の設立からとみてもいいでしょう。岩手日報などの報道もあったし、対外的にも注目を集めたスタートでした。
 問題は、順調に活動した二年ほどの後、当局の弾圧が強まり、労農党の党員がメンバーだったり、賢治もシンパとして活動していたりして、羅須地人協会の活動がマークされ始めた。とくに1928年(昭3)の3・15事件(共産党に対する弾圧)に続き、4月には労農党も解散に追い込まれ、さらに10月の岩手で初の天皇行幸啓による「陸運大演習」が行われた。この大演習も、「アカ狩り」を兼ねたものとも考えられます。すでに紹介した鈴木守『羅須地人協会の終焉ーその真実ー』の検証のように、賢治や羅須地人協会も巻き込まれ、被害を免れるために使われた方便としての「嘘言」もあったし、また真実を隠蔽する「虚構」の必要もあった。そうした「虚言」「虚構」をいかに評価するかは別にして、羅須地人協会がそれに巻き込まれながら、さらに賢治の病気や満州事変の勃発が続くことになる。こうした時代の激流による混乱に巻き込まれ、羅須地人協会の活動が呑み込まれてしまった。そこに「終焉」の「真実」がある。何となく「永久の未完成これ完成である」、賢治の「農民芸術概論綱要」の「結論」の言葉が気にかかります。
 
 羅須地人協会の活動を、下根子の別荘で行われていた「集会」だけに狭く限定してしまえば、集会に賢治が出席できず、メンバーが集まらなくなれば、羅須地人協会の「終焉」とみることも出来ます。ほとんどの説明も、そのようになっている。ただ、それについても上記の1928年(昭3)の労農党の解散、6月の伊豆大島への旅行、帰花して8月に病気を理由に宮沢の実家に帰り、「蟄居・謹慎」するまで、羅須地人協会が存続したことになる。しかし、同じように協会の「消滅」を主張する青江舜二郎は、エスペラントの習得との関連から「昭和5年、過労と栄養不良ですっかり体をこわし、自宅にかつぎこまれることで協会は消滅する」と説明されている。逆に、もっと早く昭和2年の段階で、岩手日報の記事など、官憲が動き出した時点で協会の活動が事実上終わってしまった、とみる説明もあります。理由はいろいろですが、羅須地人協会の活動を、下根子の別荘の「集会」に限定すれば、弾圧と賢治の病気で活動が停止したことは事実です。その意味では、「終焉」と表現することが許されるかもしれません。
 しかし、重要な点は、賢治も、協会メンバーも、羅須地人協会の「終焉」を対外的に明言したリ、宣言してはいない。スタートの時点で、新聞に大きく報道されたのに対応した、その解散とか終結とかの確認が存在しない。活動の停止をもって、一方的に第三者が、終焉や終結、消滅の宣告をしているだけなのです。しかもそれが、賢治の活動への絶望であり、挫折であり、思想的な清算、転向と看做されているのです。「賢治が長命であればーーー<満蒙義勇団>などの活動に、貧窮農民の救済のためと信じて、積極的に協力していった可能性は多分にある」といった議論、もっと酷いのは、「もし賢治が長生きしていたら、大東亜戦争の高揚に加担していた」という仮定の推測まであります。こうなると、賢治に代わり名誉毀損で訴えたくなる、そんな失礼な話もあります。それだけに、羅須地人協会の「終焉」はもっと慎重に行うべきだし、それが賢治や協会のメンバーに対する礼儀ではないかと思います。事実として確認されるのは、羅須地人協会の活動が、上記の理由で停止され、それが中断だったのが、賢治の病気,弾圧、満州事変、そうした事情で再開できずに、中断が永久の停止、まさに「永久の未完成」に終わってしまったのではないか?

 さらに問題なのは、羅須地人協会の「終焉」が語られる時に、賢治の親しい人への私信が証拠になっている点です。例えば澤里武治への書簡で「演習が終わるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります」(昭和3年9月23日付)と述べている点が挙げられます。確かに、以前の下根子の活動に比べて「書く方」に重点を置くように読めますが、別に集会を止めるとか、羅須地人協会の解散の宣言をしている訳ではない。以前よりも書くほうを重視したい、と述べているだけです。また、つぎの書簡も「終焉」の証拠に挙げられますが、賢治が下根子の活動の時代を回顧し、親しかった愛弟子の伊藤忠一への詫び状とも言える書簡です。「殆んどあそこでは はじめからおしまいまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。」(昭和5年3月10日付)これだけ読めば、「あそこ」は下根子の別荘で、その時は「心も体も病気みたい」で、それを反省し協会の会員に詫びているようにも読めます。しかし、伊藤忠一への詫び状だとすれば、協会の集会の活動そのものではなく、近くの「川のほとりを焼き払った」件で、賢治によって忠一が「一度、たった一度だけ大きな声で怒られたこと」を指しているのではないか?伊藤与蔵「賢治聞書」(『賢治とモリスの環境芸術』所収)には、「先生の怒り」として、詳しく事情が紹介されています。それを読めば、賢治が詫びているのは、忠一を叱ったこと、その叱り方に過ぎないのではないか?
 私信を利用するのは否定しませんが、私信はあくまでも私信、公的なものではない。私信をもって、公的だった羅須地人協会の活動の「終焉」を決定付けるのは疑問です。とくに伊藤忠一への詫び状などは、伊藤与蔵の「先生の怒り」の内容を知らなければ、第三者には良く分からない。また、第三者に分からないのが、そもそも私信であり、私信を使うことは慎重にすべきではないかと思います。賢治も人間ですから、感情の起伏は免れない。とくに賢治は、起伏の幅が大きいように見えますが、それだけに個人的な感情の変化が、とくに私信には出ることにもなったのでしょう。いずれにしても私信でも、羅須地人協会の活動を停止し、組織として解散したような意味で「終焉」は確認できないと思います。
 
 つぎに、「羅須地人協会」の活動の範囲です。別に法人化して、規約や定款があったわけではない。狭く限定すれば、上記のように下根子の「集会」だけになりますが、もともと羅須地人協会は近代的な学校制度を超えた「自由学校」だった。学校の教室での座学の形式にこだわらず、自然や田畑に入り、実習したり、農家の手伝いをしながら、農業・農村改革を進める教育だった。だから肥料相談所も作る、花巻温泉の花壇設計もやる、個別の稲作相談もする、農村を廻って多岐な活動を展開したのです。東北砕石工場の「技師」の仕事もまた、広義の羅須地人協会活動だったのではないか?賢治もそうだし、協力した協会メンバーも、広い活動に参加協力していたと思います。とくに官憲の弾圧が、演劇とか集会などの集団的活動に向けられていたので、そのため弾圧を逃れる手段として下根子の「集会」を一時的に停止し、組織の活動を防衛していたように思われます。それを姑息な手段と見るか、賢明な組織の防衛の方法と見るか、見方が分かれるかも知れません。しかし、あの時代の組織の運動としては、止む終えない方法だったと思います。
 また、すでに紹介したように、花巻「羅須地人協会」は、そもそもが花巻の地で孤立して始まったものではない。デンマークやイギリス、さらに東京や大阪の労働学校、近代的な義務教育の学校制度を超える、超近代の「自由学校」であり農芸学校だった。そうした新しい教育運動の高まりに賢治が花巻で応えようとした。そのためウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動を受け止め、その上で「農民芸術概論綱要」が「教育基本法」だったのです。そして、そうした教育運動、農村改革運動だったから、伊藤七雄の「大島・農芸学校」や松田甚次郎の山形・新庄「最上共働村塾」などが計画され、立ち上がり活動した。姉妹校のネットワークです。しかも、伊豆大島では農産加工や水産加工の事業も計画され、そのために賢治は仙台・商工会議所の産業博覧会で関連資料を集めたし、山形・新庄では農村福祉の事業や、女性解放も活動の中に取り込んだ。賢治の花巻・羅須地人協会は、そうしたネットワークで考えれば、活動は多様だし拡大している。下根子の「集会」だけに狭く限定して、その「終焉」を論ずることは、賢治「羅須地人協会」の矮小化になるだけでしょう。

 「羅須地人協会」の真実と実像は、この時期の賢治研究により、今後さらに明らかにされると思います。ただ、賢治もそうだったし、協会に集まったメンバーも、弾圧や戦争、そして賢治の病気で中断されていた下根子の「集会」が再開され、皆で集まる日が来るのを待っていた、そのことだけは否定できないと思います。それは、伊藤与蔵「賢治聞書」に、満州事変のため召集され、1933年(昭8)賢治から「御武運之長久」を祈念する年賀状を貰った与蔵さんが、満州から大事に持ち帰った賀状を胸に、すでに他界した賢治を偲び、下根子の別荘を訪れたときの言葉です。
 「先生はいつも明るく話の途中によく笑われる方でした。昭和8年の1月に先生から筆元のしっかりした年賀状を満州でいただきました。私は先生が元気になられただろうとばかり考えていましたので、国へ帰ったなら又先生からいろいろ指導をいただけると思って楽しみにしていましたが、帰った時はもうお亡くなりになったあとでした。」
 賢治と与蔵さん達の思いは、ここで疑う余地はないと思う。その思いと共に、大島・農芸学校や最上共働村塾の活動は広がり、さらに2011年東日本大震災の復興の今日もまた、賢治精神が人々の胸に蘇ってくる。賢治の目指したイーハトヴォの世界、ウィリアム・モリスの二十二世紀の「理想郷」に向けて、我々が仙台・羅須地人協会を発足させた意図もまた、ここにあるのです。 


# by kenjitomorris | 2014-03-11 20:59
新庄「最上共働村塾」の松田甚次郎


 2013年は宮沢賢治の没後80年でしたが、同時に山形県の最上・新庄で「最上共働村塾」、後に「土に叫ぶ館」と呼ばれましたが、それを興した松田甚次郎の没後70年でもありました。賢治の死後、山形の新庄で、新庄・羅須地人協会ともいえる理想郷イーハトーヴづくりを、丁度10年続けた賢治の後輩です。当時のベストセラーだった実践録『土に生きる』は、賢治精神を継承し、花巻・羅須地人協会の「教育基本法」だった賢治の「農民芸術概論綱要」から学び、それはまたウィリアム・モリスのユートピア思想でもあった。モリスー賢治ー松田甚次郎の農芸学校は、賢治がわざわざ足を運んで建設に協力した伊豆大島の伊藤七雄の「大島・農芸学校」と並んで、「芸術をもて あの灰色の労働を燃せ」の農民芸術による新しい農業、農村の復興を目指す地域づくりの「自由学校」だったのです。花巻・羅須地人協会の賢治の旗上げに応えて、伊豆大島では伊藤七雄が、山形の新庄では松田甚次郎が、近代化の犠牲となって疲弊し、「娘地獄」から抜け出すために農村の復興に立ち上がった。賢治の羅須地人協会は、花巻の下根子だけのものではない。そこで挫折し、敗北した訳では決してない。伊豆大島に、また山形・新庄の地に、日本の東北土着のアーツ&クラフツ運動として、新しい農芸ネットワークが形成されていたと思います。

 宮沢賢治1896~1933(明29~昭8)、伊藤七雄1898~1931(明31~昭6)、松田甚次郎1909~1943(明42~昭18)、一番先輩の賢治が37歳、七雄が33歳、そして甚次郎も44年の短い生涯だった。いずれも東北の農村の富豪の家庭に生まれながら、結核で若い命を運動に捧げた。賢治だけの羅須地人協会ではなく、三人の新しい農村運動、三人の協力した農芸学校、三人のアーツ&クラフツ運動のネットワークとして、羅須地人協会を位置づけた時、初めて賢治精神の力強さが理解できる。とくに賢治と甚次郎の間には、盛岡高等農林の先輩から後輩への、農民芸術の創造による農村振興への熱い思いが継承されていました。甚次郎は卒業に当たり、先輩・賢治から「小作人たれ」、そして「農村劇をやれ」と強く諭され、その感銘を胸に新庄に帰郷して「最上共働村塾」を立ち上げ、その生涯を捧げることになった。その甚次郎の没後70年を記念して、新庄市の「雪の里情報館」で記念の展示会が開催され、展示の最終日の1月12日には、甚次郎の研究と地域の演劇活動をしてきた近江正人氏(元新庄南高校長)の講演があった。仙台・羅須地人協会から出席した大平達郎さんが持ち帰った資料などを利用して、賢治と甚次郎の関係について以下紹介しましょう。

  甚次郎が生まれたのは山形・最上の稲舟村、鳥越の家老の家柄で、その後は帰農して祖父は鳥越村の戸長を務め、水田や山林経営を行う大地主、常雇人を30名以上も抱えていた。その長男として1923年(大12)県立村山農学校農業科に入学、26年に卒業して盛岡高等農林農業別科に入学、賢治の後輩として1928年(昭2)に終了しています。賢治の宮沢家もそうだし、七雄の伊藤家も水沢の大地主で事業家、いずれも東北の地方の富豪だし、いわゆる地主の金貸・商人資本として有力な地方の事業家の子息だった。だから、盛岡高等農林で学ぶことができたし、七雄は早稲田大学からドイツへ留学といった、当時の高等教育を習得した地域の学識者・インテリだった。だからこそまた、地域での改革運動もできたのでしょう。単なるプロレタリアートや小作人ではない、インテリゲンチィアだったのです。甚次郎は高等農林終了の前年、岩手日報に「農学校を辞し、新しい農村の建設に努力する宮沢賢治」の報道をみて、翌28年に秋田出身の学友と共に花巻・羅須地人協会を訪れ、賢治との運命的な出会いとなりました。 
 
 その際、「小作人たれ」「農村劇をやれ」と賢治に諭され、「最上共働村塾」を始めましたが、甚次郎たちは、事前に旱魃に苦しむ岩手県の赤石村を訪れている。当時、東北の農村は、赤石村はじめ凶作による打撃が大きく、農村の救済が叫ばれ、様々な救援も行われていた。しかし賢治は、単なる救援に対して、新しい農村建設として「小作人たれ」、農民芸術として「農村劇をやれ」と強く諭したに違いありません。たんに上から、また外からの農村救済には限界がある。農村再建のためには、農芸学校としての農民教育から、「農民芸術概論綱要」を教育基本法とする農芸の創造から、新しい村づくりを目ざす花巻・羅須地人協会の立場を訴えたのでしょう。その賢治の訴えに応えて、誠実な後輩の甚次郎が「最上共働村塾」を立ち上げたと思います。

 甚次郎の賢治訪問は、全部で3回行われ、いろいろ懇切な指導を受けました。2回目の訪問は、同じ1927年(昭2)の8月ですが、賢治の教えに従い甚次郎は父親から6反歩の小作田を借り受け、小作人として鳥越倶楽部を作る。地元の如法寺の青年住職・田宮真龍の協力を得ながら、農村劇「水涸れ」の上演の指導を受けるために、賢治を訪れました。その題名はじめ、演劇全般を指導して貰い、9月に鳥越八幡神社に土舞台を作り、上演に成功したようです。3回目の訪問は翌年1928年(昭3)8月ですが、賢治が過労で倒れた見舞いを兼ねて、鳥越倶楽部の活動などの指導を仰いだようです。しかし、この賢治訪問が最後になってしまったようで、1933年(昭8)9月には、賢治は他界します。甚次郎の鳥越倶楽部の活動は軌道に乗り、活動の場も大きく広がって1932年(昭7)8月には、元営林署の番小屋に念願の「最上共働村塾」が設立、2週間の青年講座が開かれました。ここで遂に、花巻・羅須地人協会の活動が、山形・最上の地に継承されたと言えるでしょう。

 しかし、花巻・羅須地人協会もそうでしたが、この時代は満州事変が勃発、左翼運動への弾圧も厳しく、「最上共働村塾」にも官憲の眼が光って来た。特高に狙われた、といわれます。しかし、1933年(昭8)には、第1回の有栖川宮記念更正資金を拝受したこともあり、共働村塾の活動は続けられました。その意味では、賢治精神の羅須地人協会の活動は、松田甚次郎の手で受け継がれたといえます。ただ、この継承と発展については、花巻・羅須地人協会との関係が問題になるでしょう。賢治の羅須地人協会が、官憲の弾圧もあり、賢治が挫折と絶望、そして転向していれば、甚次郎の継承も限定的になり、消極的なものになりかねない。しかし、すでに述べたように賢治の活動は、下根子・桜の別荘の集会は休止しましたが、肥料相談所や花壇設計、砕石工場など、死ぬまで続けられていた。反省の手紙などはありますが、とくに羅須地人協会の活動を、賢治らしく自己批判の末に解散宣言した訳でも何でもない。伊藤与蔵の「聞書」など、協会活動の再開を期待して満州から花巻に帰ってきました。だからこそ、賢治や協会のメンバーの活動再開への期待をつないだ点で、甚次郎は花巻・羅須地人協会の活動を積極的に継承したのです。

 それだけではありません。甚次郎の共働村塾は、「農民芸術概論綱要」の賢治精神を発展させ、様々な創造的活動を展開しました。すでに鳥越倶楽部の時代から、女性(母性)保護運動、共同保育活動、共同浴場、母の会や敬老会、さらに禁酒禁煙、有機農業や山岳立体複合農業、小農規模のデンマーク農法、生産・消費の協同組合など、多彩な活動が実践されました。これらの活動が賢治精神の創造的発展だったことは、甚次郎がベストセラー『土に叫ぶ』を上梓した時点で、改めて1938年(昭13)宮沢賢治の墓参、さらに「雨ニモマケズ」詩碑建立、続いて自ら編者になり『宮沢賢治名作選』(羽田書店)を刊行しています。甚次郎の最後は、大政翼賛会の地方支部役員など、右翼的思想に傾斜します。しかし、国民総動員で戦時体制に突入した中、それもまた生きていくための残された最後の手段だったのではないか?甚次郎は、1942年(昭17)宮沢賢治の10回忌に出席します。その後、賢治の招きに誘われるかのように翌43年8月4日、甚次郎もまた44歳で逝ったのです、合掌。

新庄「最上共働村塾」の松田甚次郎_a0063220_1072671.jpg

# by kenjitomorris | 2014-02-07 07:40
「賢治とモリスの館」10周年記念です!
「賢治とモリスの館」10周年記念です!_a0063220_07424631.jpg
例年通り、今「賢治とモリスの館」積雪のため、休眠中です。今年は雪が多いようですが、これからが心配です。4月、無事にオープンできることを祈りましょう。

さて、今年2014年は、「館」がオープンして10年になります。「モリスから賢治へ」の研究の傍ら収集した書籍やステンドグラス、そして二人の天才をテーマにしたイングリッシュ・ガーデン、そしてグリーン・ダイニングルームでの食事、モリスのユートピア、賢治のイーハトヴォを目ざした「館」作りも、10年で何とか軌道に乗りました。

昨年は、すでに紹介しましたが仙台のアイドル歌手ドロシー・リトル・ハピーが「館」を「ドロシーのお家」にしてフォトブックを出版、また仙台のタウン誌「仙台っこ」や「仙台発・大人の情報誌」『リらく』が大きく取り上げてくれたり、『河北新報』にも、賢治没後80年で「仙台・羅須地人協会」の発足と共に報道してもらいました。

さらに年末ですが、12月の初め、BS朝日のテレビ放送「鉄道・絶景の旅 スペシャル100作品記念」の大型番組で、仙山線・作並を代表するような紹介がありました。これで東京など全国から予約が殺到、テレビ効果が大きいのを思い知らされました。雪が降り始めたため、沢山のご予約を4月の「カタクリの季節」まで延ばして頂きました。カタクリの群生と共にお待ちしますので、お出掛け下さい。

このように「館」は軌道に乗って順調に走っています。10周年を記念して、「仙台・羅須地人協会」も震災の中で生きる賢治精神、モリスの豊かなユートピア思想、そして仙台・広瀬川水系から震災復興の地域づくりを始めようと、色々準備しております。今年も良い年でありますように。皆さんの変らぬご協力を切望します。


# by kenjitomorris | 2014-02-02 20:29
大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会(補足)
 今年は賢治没後80年、9月21日の賢治祭は参加者も多く、行事も多彩だったようです。例年通り、今年が4回目の参加ですが、イーハトーブ館で「賢治の里で賢治を読む」朗読会に参加、「シニアネット仙台」朗読グループ「注文の多い料理店」のメンバー10名が「なめとこ山の熊」を群読しました。この朗読会も、例年より参加グループが多くなり、割り当ての時間が短くなりました。3・11東日本大震災を体験し、明治三陸大津波(1896)、昭和三陸大津波(1933)の賢治の生と死から生まれた賢治文学、羅須地人協会などの生き様を学ぶ「賢治ブーム」を実感しました。
 

 朗読会への参加の機会に、今回も宮沢賢治記念館に立ち寄り、副館長の牛崎さんの計らいで、大島・農芸学校に関連した資料を頂戴しました。
 
 
      「 企画展示 大島「三原三部」展 宮沢賢治の原風景・パート3 」

 この企画展示は、1994年12月1日から95年7月31日まで、宮沢賢治記念館で行われ、監修・解説は萩原昌好(埼玉大学教授)でした。萩原昌好『宮沢賢治「修羅」への旅』(朝文社1994年12月刊)に、ほぼそっくり転載されていますが、19ページに及ぶ立派なパンフが作成され、そこに詳細な資料が掲載されています。大島・農芸学校を中心に、主要な論点に纏めて紹介しましょう。

 (1)賢治の大島旅行の目的は、もっぱら大島・農芸学校の設立に関する相談だった。
 賢治の大島訪問は、伊藤七雄氏の妹、伊藤チエとの関係が重視されているが、それは誤りであり訪問の目的は、ひとえに大島・農芸学校の設立にあった。その点は、「賢治に関する研究書や評論に、チエさんと賢治との関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和3年の6月に大島で会った時も<おはようございます><さようなら>と言った程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものではなかった。」という聞き書きが紹介されている。
 (2)大島・農芸学校との関係で、賢治は往路、仙台・水戸に立ち寄り、視察・見学している。
 賢治は、昭和3年6月7日に花巻を出発しているが、まず仙台で仙台商工会議所主催の「東北産業博覧会」を視察している。そこでは、とくに水産加工品、菓子など農産製造品など、重点的に見ている。その上で、父上政次郎あてに書簡を出しているが、「書簡中に水産加工品と農産製造品との連絡に着目している点に注目すべきで、これは大島での未来像を描く一資料ともなるし、自己の将来計画を立てる何かを模索しての発言とも思われる。」さらに夜行で水戸に赴くが、ここでも農事試験場に立ち寄っているが、「賢治は盛岡高等農林を卒業し、昭和3年にはすでに農学校教諭を辞して羅須地人協会を設立していたのであるから、専門的分野よりも練習生制度にむしろ自身も興味を示し、併せて大島の伊藤七雄氏の設立する農芸学校への参考資料を収集したものと考えられる。」このように農芸学校設立の基本的資料を整え、自分なりの理想と計画を準備して大島へ向かったのである。
 (3)大島・農芸学校に関する資料も沢山展示され、1931年(昭6)に開校したことは間違いないこと。
 大島・農芸学校の跡地の写真、跡地の2万坪の推定図、『島乃新聞』の農芸学校関連記事、生徒募集や「入学希望者心得」、名誉校長、校長、評議員、賛助員の連名による挨拶文、などが展示されている。ただ、昭和6年8月26日に伊藤七雄氏が死去、それでも大島支庁が翌昭和7年3月、市庁員一同が学校の継続を決めている。従って、農芸学校が計画倒れで消えたのではなく、設立され開校に漕ぎ着けたことは間違いない事実である。しかし、七雄氏の死去などの事情により、生徒募集がうまくいかず、その後自然消滅したのであるが、その点についても「結果として七雄氏の理想は成らず、立ち消えのような結果になった」とされている。
 (4)大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会には、伊藤七雄と賢治の共通の理念で結ばれていた。
 大島・農芸学校は、結果的には自然消滅のような形で閉校になったが、展示では「七雄氏の情熱は一方ならぬものがあったと思われるものが現在遺されている。それは『藻屑の夢』と題する創作で、おそらくは未完成。<島乃新聞>と突き合わせてみると、農芸学校の夢を大島の航路の便を図ること、酪農の隆盛を意図するべく連合青年団の結成を願ったものと思われる。併せて、賢治の語る園芸面、農作面での方法が具体化されて居れば、七雄氏、賢治にとって、本来の<夢>の一端が具体化されたものを、と思うと返す返す残念である。」さらに昭和5年に七雄氏が「島乃新聞」に寄稿した文章には「最近では此の近代的渡世に中毒した様々な人々も沢山見受けられる様で、また一方には時代に遅れて日々生活難をかこつという人々もある。」「元々人々各頭髪より臓物に到るまで<私>というべき程の物もない訳で、精神も肉体も天地萬有の精華であります。だから根本から言いますと元々<私>とか<我>とか言うものは無いのでありまして、有ると思うのは一つの仮想であります。で社会の文化は刻々と変化しつつあるものでその組織生活方法に於きましては種々工夫も必要でありましょうが、要は社会の幸も不幸も、一身上の幸も不幸も只お互いが能く誠を尽して公に奉ずると否とに存すると信じます。」という個所に賢治の持つ理想と相通ずるところが見られる、と紹介されている。

 いずれにしても宮沢賢治記念館の「企画展示」は、大島・農芸学校について詳細に紹介し、賢治が伊藤七雄氏に協力しながら、花巻・羅須地人協会と緊密に連携し、組織的にもネットワーク化しようとしていた事情が明らかにされています。さらに、こうした協力体制の中で、花巻・羅須地人協会の活動そのものも、園芸面、農作面、酪農面など多様化することが模索されていたし、仙台商工会議所の「東北産業博覧会」視察を踏まえて、水産加工、農産加工への多角化が検討されていたことも窺われるます。
 ただ、伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』などが提起している、大島・農芸学校の伊藤七雄氏が、もともと労農党の浅沼稲次郎氏などにつながる幹部であり、労農派の農民運動との連携などもあった点については、全く触れていません。その点は、企画展示に関与した上記、牛崎副館長が全国的な「新しい学校」の動きとの関連の重要性を示唆されていたことは、一応紹介しておきましょう。
大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会(補足)_a0063220_20394581.jpg

# by kenjitomorris | 2013-09-23 16:39
大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会
 宮沢賢治の花巻・羅須地人協会は、1926年(大15、昭元)にスタートし、集会などの集団的行為は、当局の眼圧などを考慮して、約2年半で中断しました。とくに1928年(昭3)の3.15事件などの影響が大きかったのでしょうが、ただ羅須地人協会の花壇設計や肥料相談などの活動は続けられたし、さらに3・15事件の前後にも、賢治は「農民芸術学校」としての羅須地人協会に関連して、重要な活動をしています。
 その年の6月、賢治は上京し、さらに伊豆大島を訪れ、伊藤七雄氏の計画していた「大島・農芸学校」の相談に乗っています。この時の様子が「三原三部」に述べられていますが、「大島・農芸学校」の企画は、おそらく「花巻・羅須地人協会」を参考にし、それをモデルにしようとした点で、いわば姉妹校の構想だったとも言えるでしょう。こうした動きは、その前の年1927年(昭2)に、盛岡高等農林の後輩で、山形県最上郡鳥越村で「郷土文化の確立、農村芸術の振興」に励みながら、「鳥越倶楽部」で活動していた松田甚次郎が、「花巻・羅須地人協会」の賢治に教えを乞いに来訪していた、そうした「新しい学校」のネットワークづくりとも連動していた。さらに言えば、高等農林からの親友だった保坂嘉内の山梨・韮山の「花園農村」の活動も、間接的でしょうが、関連していたように思われます。
 なお、岩手国民高等学校と賢治の羅須地人協会の関連など、当時の教育制度の改革の動きについて、前述の佐藤 成『宮沢賢治 地人への道』の中で、「塾風教育施設」の設置状況の資料を挙げています。(下図参照)ご覧のように、塾風教育施設が大正の末から昭和の初めにかけて、全国的に急増していることが判ります。設置目的も「農村中堅人物の要請」が大部分ですが、賢治の花巻・羅須地人協会も、それらの中の一つだったのでしょう。自由学校的な塾風教育の「新しい学校」づくりが、国民高等学校などと並んで、「農村中堅人物の育成」など、内外で教育改革の大きな高まりを見せていた。要するに賢治の羅須地人協会は、花巻の下根子・桜での「下の畑」の閉ざされた空間での活動ではない。近代社会の学校教育の限界を越える「新しい学校」づくり、農村芸術による地域づくりの改革運動に、深い繋がりをもっていた点を看過すべきではないと思うのです。
 そこで「大島・農芸学校」ですが、6月に賢治が伊豆大島を訪問する前に、伊藤七雄氏の方が1928年春と言われていますが(前年秋とも言われている)、花巻に賢治を訪れていました。「伊藤七雄、チエの兄妹が豊沢町の宮沢家を尋ねてきたので、下根子に居る賢治が実家に呼び返されたという(森荘巳池『宮沢賢治の肖像』)」ことがあり、その返礼の意味もあって、賢治の伊豆大島行きとなったのでしょう。この大島行きは、もっぱら賢治と伊藤の妹チエとの婚約に関連した話題が有名になったようですが、婚約の話は賢治が辞退して終わりました。それとは別に、というより賢治と伊藤七雄の関係では、むしろ「大島・農芸学校」の話題が重要だったと思います。東北・岩手の地で立ち上げ、一定の影響力をもった花巻・羅須地人協会の経験から、「新しい学校」作りを学び、連携しようと思っていたのではないか?そこで伊藤七雄氏ですが、まず伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』では、次のように紹介されています。
 「賢治の友人の一人に伊藤七雄がいる。伊藤(明31~昭6)は水沢生まれ。浅沼稲次郎とも親交がある労農党員であった。その後、大島に土地を求めて移住、島に農芸学校を設立しようとして賢治の意見を求めていたようである。しかし、諸般の事情から学校の設立は断念のやむなきに至っている。---労農党稗和支部の設立に頑張った賢治と労農党本部役員だった伊藤七雄との接点は、大正十五年十月三十日の労農党盛岡支部大会か稗和支部大会が開催された十月三十一日にあったのではないだろうか。伊藤と賢治は盛岡か花巻の労農党支部大会で知り合い、昭和三年春には、伊藤が妹を連れて賢治を尋ねるまでの親しい仲になっていたものと思われる。賢治は同年六月、伊豆大島に伊藤を訪ねているが、これもかねての約束による旅だったのではないだろうか。」
 まず、伊藤七雄の兄妹は水沢出身ですが、もう少し説明しますと「伊藤七雄は胆沢郡水沢町の豪商の出で、ドイツ留学中に胸を患い、療養のために伊豆の大島に転地し、ここに土地を買い家も建てて暮らしていた。妹は兄を看病していた。」(堀尾青史『年譜 宮沢賢治伝』)七雄は、日中交換学生の実現、関東大震災では朝鮮人学生の保護など、広く大胆に活躍していた。大島療養でも、健康が回復してきたので現地に大島・農芸学校を設立しようと考え、同じ東北・岩手の地縁、また宮沢家との関係を頼りに、妹チエを伴っての花巻訪問となったようです。さらに七雄と賢治の関係では、上記の通り労農党の盛岡、稗和両支部での活動がありました。七雄は労農党の幹部、浅沼稲次郎や大山郁夫ですから早稲田の建設者同盟の系統でしょうが、その理論家と思われます。
 建設者同盟ですが、1919年(大8)に、東京帝大における新人会の結成に刺激され、早稲田大学を中心に結成された学生運動の団体です。はじめ学生団体「民人同盟」として発足しましたが、浅沼稲次郎、稲村隆一、三宅正一などが脱退し、早大教授の北沢新次郎を顧問に、新たに結成された組織です。当初は、比較的穏健な活動を続け、大山郁夫、山川均などを講師に迎えた研究会を中心に、啓蒙活動を続けながら、早稲田大学だけでなく東大、慶大、明大など大学横断的な組織に発展した。さらに北沢の指導もあり、東大の新人会が労働団体の友愛会との結びつきが強いので、建設者同盟は農民運動と結びつき、次第にそれまでの研究・啓蒙活動から、日本農民組合の組織活動を指導することになった。その後1923年春、早大の学内団体から学外を中心の社会主義団体に再編、浅沼、三宅などは農民運動の指導者となり、さらに1926年には無産政党の結成をめぐる党の分裂の中で、単一無産政党としての労働農民党から、中間的な日本労農党の結党に参加したと言われています。こうした労農党のブレーンとして、伊藤七雄が宮沢賢治の労農党シンパの活動、「新しい学校」羅須地人協会の役割、さらに東北の地縁からも賢治の活躍に注目し、それを高く評価した。そして、自らも伊豆大島に農芸学校を創る決断をしたのでしょう。その上で、具体的な相談や協力を仰ぐために花巻への来訪があった、と思われます。
 伊豆大島の農芸学校、確かに成功しませんでしたが、1931年(昭6)には開校に漕ぎ着けたそうです。だから、「学校の設立は断念」したわけではない。ただ、開校の直後1932年1月に七雄が死去したので、廃校に至ったそうです。こうした大島・農芸学校との関係を考えると、花巻・羅須地人協会を切り離し、それだけ孤立させて下根子・桜での集会の一時中断だけから、賢治の挫折、失敗、絶望と悲劇的に見るのには疑問を感じます。大島・農芸学校との関連を見れば、労農派の活動と結びつきながら、「新しい学校」への新たな教育実践に賢治が挑戦し、伊藤七雄もそれへの連帯の動きを示していたのです。さらに花巻と伊豆大島だけではない。当時、農民芸術を通した農村・農民改革の運動が、各地で広がり始めていた。大阪や東京では、すでに「大阪労働学校」の例を紹介しましたが、都市型の「新しい学校」の教育改革も進められていました。
 こうした「新しい学校」の教育改革は、ロシア革命、ボルシェビズム=マルクス・レーニン主義、そしてプロレタリア独裁の「国家社会主義」からは絶対に生まれない改革実践です。マルクスからモリスへの共同体社会主義、そして堺利彦や山川均の土着日本型労農派社会主義の水脈を、東北の地で宮沢賢治の豊かな感性が受容した、それが花巻・羅須地人協会の「新しい学校」の教育実践だったのではないでしょうか?
 
 
大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会_a0063220_1154428.jpg

# by kenjitomorris | 2013-08-24 08:10



賢治とモリスの館 - 最新情報
by kenjitomorris
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31
外部リンク
カテゴリ
全体
未分類
以前の記事
2019年 04月
2019年 02月
2018年 04月
2017年 09月
2017年 05月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 08月
2016年 06月
2015年 12月
2015年 08月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 07月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 04月
2013年 03月
2012年 12月
2012年 09月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 05月
2011年 03月
2010年 12月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
フォロー中のブログ
賢治とモリス<研究ノート>
検索
記事ランキング
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧