「賢治とモリスの館」今年もオープンです。
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 皆さん、お待たせしました。仙台・作並「賢治とモリスの館」今年もオープンしました。
 昨年に引き続き、仙台・作並は雪が多く、今年も広瀬川の源流近くで大きな雪崩があり、国道48号線がストップする事故もありました。
 
 「館」のオープンが遅れそうでしたが、何とか除雪を行い、昨日は掃除も完了して、無事にオープンで来ました。庭の隅にまだ雪が残りましたが、左手の斜面の雪は消え
待ちわびていたカタクリの群生の若い芽がたくさん顔を出し、一斉に花を咲かせる準備のようです。もう一週間以内に開花が可能です。皆さんのお出掛けをお待ちします。

 作並、「館」の近くにニッカの工場があり、NHKの朝ドラ「まっさん」ブームで、沢山のお客が訪れています。広瀬川の水、川面を流れる川霧、自然がはぐくむスコッチウイスキーの香りと味覚が評判です。「館」の水は、ダムの水ではありません。広瀬川に流れ込む沢山の「沢の水」です。この沢の水で「水割りウイスキー」、スコットランド以上に素晴らしいスコッチを楽しめます。

 カタクリの群生に囲まれたスコッチの味、どうぞお楽しみを!お待ちします。
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# by kenjitomorris | 2015-04-05 12:39
漱石のロンドン留学と2人のモリス
 ウィリアム・モリスと宮沢賢治の点と点を結ぶ線上で、とくに夏目漱石のロンドン留学が注目されます。すでに、このブログでも何度か取り上げて、モリスと漱石の接点を探りました。(「モリスと夏目漱石の接点を探る」2010年2月27日より5月8日まで4回連載、さらに5月9日「漱石発狂す―夏目漱石のロンドン生活」参照)ここで少し補足したいと思います。

 先ず、すでに紹介しましたが、漱石文庫に収められている彼の日記から、1901年7月9日に「HolbornニテSwinburne及Morrisヲ買フ」とあります。ここのMorrisは明らかにW.Morrisでしょう。モリスの本を買い込んで、読み始めた。ただ、東北大学図書館の漱石文庫には、Morrisの本が4冊あり、そのうち3冊はロンドンでこの時購入したと思われます。しかし、「Art and its Producer, and the Arts and Crafts of Today」は、漱石が日本に帰国後、丸善から購入したことが、同図書館の木戸浦氏により明らかにされました。漱石の当時の関心が、社会主義やArts&Crafts運動より、モリスのラファエロ前派との関係にあり、その後しだいにアーツ&クラフツ運動や社会主義に関心を寄せるようになった推移が伺われます。先日の仙台文学館のシンポの成果だと思います。

 さらに日記には、9月7日「モリスヲ連レテHyde Park邊ヲ散歩ス」とあり、ここの「モリス」を漱石が購入したモリスの本と解釈してみました。さらに漱石は、9月21日にも「Morrisヲ連レテ散歩ス」と書き、どうやら散歩にモリスの本を持参、公園などで読書を楽しんでいた、と推測したのです。この推測には、すでに平山 昇氏からも注意があり、「モリス」はウィリアム・モリスではなく、モリスという名前の少年のことらしい、と指摘されました。今度また、木戸浦氏からシンポの後ですが、個人的に注意がありました。そこで、問題にされている9月2日の漱石の日記ですが、「夜 佛ノ少年モリス兄ニ残サレテ泣イテ居ル故(カルタ)ヲシテ遊ブ」とあり、孤独な漱石と孤独な仏の少年の交流という、心温まる話です。ですから、そのあと少年モリスと漱石が仲良く散歩した可能性も大きいと思います。

 漱石の日記は、ご覧のように簡単極まりないもので、Hyde Parkの散歩のお供をしたのが、少年モリス君か、購入したウィリアム・モリスの本なのか、それとも両方だったのか、日記だけでははっきりしません。9月21日の日記にも「Morris」との散歩がありますので、漱石は少年は「モリス」、本は「Morris」と書き分けたかもしれません。ただ、漱石がモリスの本を持参して散歩し、一生懸命読んでいたことは確かだし、さらにモリスと縁の深いV&A博物館やその食堂にも足を運んでいたことも日記に出てきます。そうした漱石のモリスとの接点が、帰国後の漱石の作品に色々現れてくる。今回の仙台・文学館での木戸浦氏の報告を含め、モリスと漱石の関係が、東北大の漱石文庫により、とても身近なものになったと感じています。

 ただし、日記や書簡を利用する際は、特に注意が必要だと思いました。日記は見せるものではなく、自分だけの忘備録のようなもので、漱石だけが簡単にメモしただけのようです。「モリス」少年か、それとも「Morris」の本か、両方か?あの世で漱石に聞いてみなければわかりません。宮沢賢治についても、書簡を巡りいろいろ議論がありますが、当事者だけしかわからないことが多い。なかなか難しいものだと思います。

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# by kenjitomorris | 2015-03-02 19:12
仙台・文学館で10周年記念会が開催されました。
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 昨年、「賢治とモリスの館」10年を迎え、お世話になり、ご来訪いただいた方々に記念の品を準備させて頂きました。このところ、お陰様で来訪者の数が着実に増加し、とくに東京など、遠方の方々が増えております。心よりお礼申し上げます。
 目下、「館」は積雪で冬眠中ですが、10周年記念の会を、一昨年スタートさせた「仙台・羅須地人協会」、その一周年記念と抱き合わせに、2月15日(日)仙台市文学館で開催させて頂きました。200名を上回る沢山の皆さんのご参加を頂き、私ども主催者は心より喜んでいますし、皆さんに厚く感謝申し上げます。ウィリアム・モリスと宮沢賢治、その点と点を結び、日本におけるマルクス・モリス主義の思想の流れを「土着社会主義」の継承として、とくに東北大学の図書館にある漱石文庫に因んで、「ウィリアム・モリスと夏目漱石、それから宮沢賢治」のタイトルを選びました。
 河北新報が上手に記事にしてくれましたので、それを転載させて頂きます。お読みください。なお、モリスについては吉村さんが、労働と芸術の関係を判りやすく、「館」の紹介を含めて要領よく説明されました。日本の地方民謡でも、もともと「労働歌」だった。労働と芸術のつながりを取り戻す賢治の芸術思想にも、モリスの労働観が通底しています。
 漱石については、東北大図書館の木戸浦さんが、モリスが自ら翻訳までしたアイスランド神話の「サガ伝説」について、漱石『こころ』の中で生かされている研究を披露されました。漱石文庫の中には、漱石がロンドン留学中にホルボーン書店街で購入した「サガ伝説」も含まれていて、それを読んだエピソードも紹介されました。モリスと漱石が、仙台でぐっと身近になったと思います。
 賢治については、宮沢賢治記念館の運営審議会の会長でもあった阿部弥之さんが、羅須地人協会の会員で、労農党の活動家だった高橋慶吾氏の配布した賢治自身の書いた協会案内のチラシなどを持参され、賢治と労農派との活動のつながりを説明されました。また「宮沢賢治・花巻市民の会」の活動など、仙台・羅須地人協会との連携も視野に入れての報告でした。
 なお、賢治の童話「狼森と笊森、盗森」の朗読、会場には作並の「館」の堺利彦の和歌やモリスの本、マナートレーディングが壁紙やテキスタイルを展示するなど、じつに多彩な催しとなりました。
 

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# by kenjitomorris | 2015-02-17 16:00
モリス『社会主義』とソーシャルデザイン(続)
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 そこで、最近のソーシャルデザインの動向ですが、今日まだモリスとの関連が十分つけられてはいないようです。ただ、何といっても「モダンデザインの父」と呼ばれ、その上アーツ&クラフツ運動、さらにバックスとの共著ですが『社会主義』の著作もあるモリスです。モリス再評価に関連して、ぜひソーシャルデザインへの水脈を探っておく必要があるように思います。すでにインテリアやデザインの関係者や団体などでは、モリスとソーシャルデザインに関心を寄せているようですので、問題提起的に述べてみましょう。

 ソーシャルデザインについては、全部眼を通していませんが、何冊か出版されています。教科書的に整理したものもありますが、まだ経験的な事例紹介によるケース研究にとどまっているように思います。むろん興味ある事例研究が多く、実践的な問題解決型の事例紹介が一つの潮流になっているのを強く感じます。とくに先進諸国での社会的・経済的な行き詰まり、政治的混迷の深まりと閉塞感、とりわけ3・11の東日本大震災の復旧・復興の中で、ソーシャルデザインの実践的解決に期待が寄せられているのでしょう。ただ、今それがなぜソーシャルなのか?また、なぜデザインなのか?必ずしも答えは明確ではありません。

 まず、なぜソーシャルか?という点ですが、ソーシャルデザインの定義として、例えば「利益追求ではなく、社会貢献を前提にしたコトやモノのデザイン」といった説明があります。企業の「社会貢献」が強調される風潮が高まっていますが、「社会貢献」を手段にして、利益追求を行う営利企業が多い中で、利潤追求の隠れ蓑に「社会貢献」を利用するのは疑問です。その点では、企業のあり方を明確に定義しておくことが必要であり、多くの紹介されている事例研究が、事実上でしょうがNPOやNGO、協同組合やコミュニティ・ビジネス、ベンチャー企業を挙げているのは正解です。ソーシャルデザインの主体が、営利追求の商業主義の企業では、金権腐敗の政治からも脱却できない。社会的な問題解決にもつながらない、その点はマルクス『資本論』をバックスと読んで社会主義としてデザインを提起したモリスを、是非参考にして欲しいと思います。

 企業は、個人にせよ法人にせよ、投資対象の組織として、営利活動を行ってきた。営利活動は、資本の価値増殖のために行われ、金融にせよ、商業にせよ、産業にせよ、近代社会の資本主義の経済主体だった。しかし、資本主義の行き詰まりの中で、上記のように非営利の企業活動が各国様々な呼称で登場し、ソーシャルビジネス=社会的企業が積極的に活動しています。そして、営利企業では解決できない社会的問題を解決する。ソーシャルビジネスの目的や使命は、営利ではない。ミッションは、社会的問題の解決である。このソーシャルビジネスの社会的活動と結びついてソーシャルデザインの役割が位置付けられるのではないか?

 さらに営利企業に雇用される労働力は、労働力商品を前提とした「雇用労働」であった。雇用労働は「日給」にせよ「月給」、「年俸」にせよ、営利企業が投資する「給与」等として費用化される。しかし、新たに経済主体として登場するソーシャルビジネスは、有償ないし無償のボランティアであり、「協同労働」です。協同労働に基づいた共同体(アソシエ―ション)として、ソーシャルビジネスは社会的に活動機能する。モリスが「農民芸術」を「小芸術」、そして「付随的芸術」としたのは、存在の大小ではないし、位置づけの高低ではなく、「協同労働」の協働すること、アソシエーションの喜びであり、そのミッションの価値だろうと思います。そして、ここにソーシャルデザインが結びついてくる。

 モリスのデザインは、壁紙にせよカーテンのテキスタイルにしても,単体の独立した芸術品ではない。装飾として食堂に飾られ、建築建造物に付随し、しかも庭園のガーデニングと結びつき、台所の食器から料理にいたるまで、アソシエーションのネットワークを構成する。だから、大芸術に対して小芸術だし、実質的芸術に対する付随的芸術と定義されているのでしょう。しかも、『社会主義』では、都市と農村をはじめ、地域の共同体から国際関係までの「グランドデザイン」に及んでいる。そうしたグランドデザインを、一方では社会主義思想の「根源」にまでさかのぼり、他方では近代資本主義経済の自立的運動法則を『資本論』に学びながら、主体的運動の目指すヴィジョンとして具体的に提起したのが、モリスの壮大な『社会主義』のデザインです。プロレタリア独裁の国家社会主義の上からの計画化や、私有財産を国有化による国営企業の骨組みだけの無味乾燥なマルクス・レーニン主義のテーゼではないのです。

 もしソーシャルデザインが、社会問題の解決に向けて「市民の力で社会をより良いものへ作り変える活動はソーシャルデザインと呼ばれ、町作り・環境保護・福祉・ビジネスなど、多くの分野で試みられている」とするならば、モダンデザインの父、ウィリアム・モリスの『社会主義』を参考にしたらどうか?むしろ、ソーシャルデザインの古典として位置づけて見ることをお勧めしたいと思います。
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# by kenjitomorris | 2015-01-06 15:21
モリス『社会主義』とソーシャルデザイン
 師走も押し詰まり、皆さんご多忙でしょうが、ここへ来て2冊の新刊が書店に手をつないで並ぶことになりました。一つは翻訳で、もう一つは共著です。2冊同時になり、今年は超多忙のうちに年末を迎え、何とか一山越えて越年できそうです。

 まず翻訳ですが、幸徳秋水が1903年名著『社会主義神髄』の中で引用、推奨したW.モリスとE.B.バックスの共著『社会主義:その成長と帰結』1893(晶文社刊)です。発行から120年ぶりに日本初訳という幻の名著で、モリスのファンタジックロマンの傑作『ユートピアだより』の理論的基礎となる共同体社会主義の古典です。

 共著の方は平山昇さんとの協業で『土着社会主義の水脈を求めて:労農派と宇野理論』(社会評論社刊)です。モリスと賢治、二人の天才の点と点を結ぶ、幸徳秋水、堺利彦、山川均、それに夏目漱石や土井晩翠も線上に現れ、そして戦前の東北大の宇野弘蔵、大阪労働学校の森戸辰男、さらに労農派シンパとしての宮沢賢治の花巻・羅須地人協会の姿が見えてくる。
 
 これから仙台・羅須地人協会を中心に講座やゼミのテキストとしてもご利用いただき、いろいろご議論いただければと思います。議論のきっかけとして、翻訳に関連してモリス『社会主義』と「ソーシャルデザイン」との関係について、はじめに問題提起をさせて頂きましょう。

 モリスがオックスフォードで勉強して、神学への道を捨て、友人のバーン・ジョーンズとともに芸術の道を歩むことにした。しかし、画家や建築家ではなく、装飾デザインの道を歩み、モダンデザインの父と呼ばれるようになった。壁紙やカーテンのテキスタイルだけではなく、タペストリーやステンドグラス、タイルパネルなど、さらに本の印刷や製本まで手を広げた。彼は、詩人でもあり、社会運動家でもあったが、やはりデザイナーとして若い時から終生活躍した、そして日本の民芸にまで影響を与える世界的なデザイナーであると言えるでしょう。その彼が、1870年代の終わり頃から、当時イギリスでも影響を与え始めたマルクス主義に傾倒し、社会主義の組織人として、死ぬまで活動を辞めなかった。とくにマルクス『資本論』を熟読し、それを上記バックスとともに概説し、『社会主義』を組織の機関紙に連載、そして共著として1893年に出版したのです。

 モダンデザインの父と呼ばれるモリス、他方、社会主義の運動に一身を捧げたモリス、二人のモリスを巡っては長い論争があります。その紹介は省略しますが、一方では装飾デザイナー、さらに詩人や『ユートピアだより』などを書いた芸術家としてのモリスを重視し、そのモリスを基本とするモリス論です。芸術家モリスが、途中で社会主義の運動の道に走ったのは、途中からの気の迷いだろうといった解釈もあります。逆に、芸術家としてのモリスは、社会主義を実践的に追求したのであり、芸術社会主義者からギルド社会主義者として、マルクス主義を受け継いで社会主義者として生き抜いた、そんな解釈もあります。しかし、モリスが二人いるはずはなく、一人のモリスであり、彼の生も死もモダンデザインとともにマルクス主義を信じてのことだった。そこにまたモリスの芸術とともに、彼の社会主義の魅力もあると思います。

 確かにモリスの生涯をたどると、1870年代の初め30歳代までは、芸術の道一筋だった。自らも社会問題に関心があまりなかったと述べています。それが40歳代に入って自由党の急進派の立場で「東方問題」で政治的に活躍し、その後、自由党急進派の立場を越えてハインドマンなどとの接触から、社会主義、とくにマルクス主義に関心を寄せてバックスとともに英国最初のマルクス主義の組織「社会主義連盟」に加入、自ら社会主義者を公言したのです。ですから、モリスの社会主義は、社会問題の政治や経済からではなく、芸術から社会主義に接近、とくにハインドマンやバックスとの関係でマルクス主義に入ったと言えます。1880年代、それもマルクスの亡くなる83年頃『資本論』を表紙が擦り切れるほど読み、組織の機関紙「コモンウィール」にバックスと一緒に「社会主義」について連載することになったのです。

 そこでモリスの芸術についての考え方ですが、ラファエロ前派の影響を受けながら、70年代末に入っての講演では、しばしば小芸術(Lesser Art)の考え方を主張しています。「大芸術」に対比しての小芸術ですが、作品の大小よりも、独立して単体として制作された芸術作品の大芸術に対して、「小芸術」は壁紙やカーテンなど、付属して装飾として役に立つ「装飾芸術」(Decorative art)に属する作品です。だから、『社会主義』では、大芸術に属する「実質的芸術」に対比して、「付随的芸術」(adjective art)として、近代社会の金権腐敗から芸術を救い、生活の芸術化、芸術の生活化を目指そうとしています。モリスは小芸術について、こんな興味深い説明をしています。

 「それはしばしばかなり荒削りではあったが、けっして粗野ではなく、美しく、自然で、飾らず、豪商や廷臣の芸術というよりも農民の芸術であり、それを愛さないのは無情な人間にちがいないと私は思う。---いわば農民芸術であり、それは人々の暮らしにしっかりと根づき、大邸宅が<フランス風に豪勢に>建てられていた間も、わが国の多くの土地で、小作農と自由農のなかにそれは依然として生きていた。外国産の愚かな虚飾が自然と自由をことごとく消滅させ、芸術が、とくにフランスにおいて、上手く立ち回って得意顔のあの悪党どもの所業の表現になりはててしまっていた時にも、織機や版木や刺繍針が作り出す多くの古風な模様のなかに、それは依然として生きていたのだ。」

 こうしたモリスの「小芸術」の思想が、アーツ&クラフツ運動、そして上記のように「付随的芸術」と表現を変えながら、働き方、暮らし方、さらに生き方につながり、社会主義のヴィジョンにまとめ上げられたように思います。そして、日本の労農派の「土着社会主義」の水系とともに、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」に受け継がれた。まさに賢治とモリスですが、こうした農民芸術に根差した生活芸術の思想が、モリスの装飾デザイナーの生き方から生まれ、「社会主義」ソーシャリズムのデザインとして主張された、それがモリス・バックス『社会主義』だったのです。 

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# by kenjitomorris | 2014-12-05 18:55
ウィリアム・モリスのセミナーに出席
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 仙台・作並も紅葉のシーズンが去り、冬の到来です。「館」オープン10周年記念の年も、歳末の解散・総選挙で慌ただしく暮れてしまいそうです。今年も、作並で恒例のモリス・セミナーを考えていましたが、モリスの翻訳と共著と2冊の出版が重なり、校正など超多忙で断念しました。2冊は次の通り。

 モリス E.B.バックス『社会主義‐その成長と帰結』1903 晶文社刊
 大内・平山昇『土着社会主義の水脈を求めて‐労農派と宇野弘蔵』社会評論社刊

 両書、これから仲よく書店に並びます。モリスと宮沢賢治の点と点、それを結んで線となる。その線が幸徳秋水、堺利彦、山川均の労農派の水系、さらに「労農派シンパ」の宮沢賢治「羅須地人協会」へ流れ込み、『どんと晴れ』のイーハトヴのユートピアにつながる、読んで頂ければ嬉しいかぎりです。
 そんなわけで作並のセミナーの代わりに、東京の中目黒のマナトレーディングのショールームで9月30日開催の「Morris & Coのストーリー」のゼミに出席しました。英国からSanderson社の元最高責任者マイケル・パリ―氏が来日、大変興味深い話を聞きました。一つはヨーロッパ、イギリスへのジャポニズムの影響です。モリスの祖父がウエールズからウースターに来て成功し、母親はウースター女性です。ウースターはソースで有名ですが、ロイヤル・ウースターの陶器はジャポニズムの代表だし、モリスも大きな影響を受けている。モリスのウィロボーのデザインも日本の柳の絵を見て生まれたそうで、それが今でも世界中に輸出され愛されている。日本には逆輸入されているわけです。
 もう一つ興味深かったのは、一昨年モリス商会150年を記念して、コッツウオールズのモリスの別荘ケルムスコット・マナーでモリスの家族が使っていたベッドカバーなど、奥さんや娘さんが刺繍したデザインを製品化した。作並の「館」でも展示させてもらい好評を博しました。その縁で記念作品を購入し、タペストリーにして階段に飾ってあります。もともと自家製で自家用に作った作品で商品ではなかった。それが150年も経って、製品として売り出したら日本でもトップクラスの売り上げで驚いているそうです。大工場の機械で大量生産・大量販売・大量消費の時代が終わり、市場性ではない家庭用の製品が好まれる時代の到来です。
 モリスさん、どうお考えですか?それこそモリスの社会主義!皆で考えましょう。
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# by kenjitomorris | 2014-11-23 16:29
W・モリス=E・B・バックス『社会主義:その成長と帰結』1893
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 長く手に入れたいと思いながら機会を逃していたモリス=バックスの共著を、イングランドの古書店のカタログで見つけ、注文したのが5月、カードで支払いも5月22日に済ましました。船便で予定は7月24日到着、しかし8月の20日が来ても、肝心の本は到着しない。問い合わせたら「すでに発送した」との返事、船便で遅れているのかと思いつつも、安価なので手を出したが「安物買いの銭失い」と反省していたら、25日に無事到着。Howard Bird 12.12.1896 と署名、書き込みもあり、十分読み込んでいるのが分かる。ページをめくりながら、思わず「長旅ご苦労さん!」と声をかけた。こういう瞬間が至福の時なのです。
 
 この共著、1893年にロンドンで発行され、日本ではモリスの『ユートピアだより』を堺 利彦が抄訳したよりも一足早く、幸徳秋水が1903年に名著『社会主義神髄』で引用紹介しました。マルクス『資本論』エンゲルス『空想から科学へ』などとともに参考文献にも挙げ、「初学少年の為に特に之を言う」と推薦した古典的書物です。ところが『資本論』『空想から科学へ』は無論のこと、モリスの『ユートピアだより』は何度も翻訳されながら、この共著『社会主義』だけは、ほとんど紹介も無く、置き忘れられた書物になってしまいました。不思議な話だし、とくに『ユートピアだより』を読解する上では、不可欠な作品だと思います。

 共著の翻訳の準備を数年前から進めてきましたが、大震災などもあり遅れてしまいました。しかし、岩波文庫の『ユートピアだより』の訳者、川端康雄さんが全面的に翻訳にご協力いただき、いま作業は大詰めを迎えています。これまで東北大の図書館の蔵書のコピーなどで作業を進めてきましたが、やはり本物が欲しい。そこで、この度の古書購入となりました。「賢治とモリスの館」のモリス本の蔵書も少しづつ増えて、今回また「幻の書物」が並びます。ご覧ください。
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# by kenjitomorris | 2014-09-01 21:46
被災地の石巻を訪れる
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 先日、ずっと気になっていましたが、津波被害では最大と言われ、その再起、復興が心配されている石巻を訪問しました。同行してくれた石巻出身、実家も津波で跡形もなくなったK君の訪問記を紹介します。まず、お読みください。仙台・羅須地人協会のホームページの「復興・協同」通信に掲載の文章です。

 「われらひとしく丘に立ち」

                                     今野 禎市郎

「あれ、太陽光発電じゃないか?」

「石巻市民病院があった場所だけど土盛りでしょうかね。上に掛けた防水シートが網目模様なのでは」自信のない生返事である。

問いかけたのは、大内秀明さん。東北大学名誉教授。仙台・羅須地人協会代表。最近は平凡社新書『ウイリアム・モリスのマルクス主義』が好評だった。「復興・協同」通信に、もう10 回以上執筆している。

石巻の日和山公園の上の、鹿島御児神社の鳥居の横にいる。ここは3 年前、供え花で埋め尽くされ、被災者慰霊の丘になった。毎日のように有名芸能タレントやレポーターが押し掛け、ミニイベントやテレビ中継が続いた。

その端から一段下がった、といってもほんの数十歩のところに、地元産の稲井石に刻んだ詩碑がある。

 「われらひとしく丘に立ち」明治45 5 月、宮沢賢治がここを訪れた。盛岡中学の修学旅行1 日目である。一関から川汽船で北上川を下った。眼下に広がる太平洋、生れてはじめて見る海に、感動を「まぼろしとうつつとわかずなみがしらきほい寄せくるわだつみをみき」と詠んだ。この短歌を改作してできたのが文語詩の詩碑「われらひとしく丘に立ち」である。

現にもどる。二人並んで北上川河口を見ている。左手の岸は、石巻魚市場や関係の施設、復興なった事業所が軒を連ねる。それに比べ、眼下の右岸の方は、建物らしい建物が3 つか4 つ。震災前には確かにあった住居や商店の跡地、路地や事業所、そして公共施設などの痕跡が、まるで原稿用紙の升目のように広がっている。

マグニチュード9。国内では観測史上最大の東日本大震災。その震源に一番近い市街地の一つである。地震の激しい揺れ、黒い津波、火がついた浮遊物が引き起こす津波火災、それに地盤沈下。東日本大震災で起きた災禍のほとんど総てが、この地で苛烈を極めた。幼稚園送迎バスの悲劇もあった。

7.2 クタールの南浜地区だけで400 人余りの犠牲者が出た。震災の後、再び津波の襲来や高潮による浸水があるとして「災害危険地区」に指定された。建物の新築が出来ない。ここに、国と宮城県、石巻市が共同で「復興祈念公園」をつくろうとしている。追悼、鎮魂、そして教訓の伝承の場。歴史的な大災禍だけに、こういう施設をつくることには賛成する。ただし高さ7.2 メートルの堤防が海岸線に沿って長く伸びるので、この公園から海はまったく見えない。

私たち二人がいる日和山公園の鹿島御児神社前は50 メートルほど高いので、賢治が感動した海が遠く水平線まで広がる。海の見える丘か、海岸堤防が視界を遮る「祈念公園」か。勝負は見えている。

待っていたタクシーで丘を下り、南浜地区を見た。津浪火災で焼けた門脇小学校は白いシートで覆われ、焼け焦げた校舎を隠していた。

何箇所かで車を降り、写真を撮った。

そのまま石巻の中心部を回った。シャッターが下りた店舗、そして建物を解体した更地が延々と連なる。

石巻専修大学2号館に戻ってきた。ワーカーズコープ「東北復興本部」3 周年記念フォーラムの会場、午前中ここで基調講演を聞いた。

午後はシンポジウム形式。「被災地は非日常の派手なイベントはもういらないと言っている。日常を取り戻すための地に足のついた支援がもっと欲しい」という発言が記憶に残った。

最後の来賓祝辞に立った、わが大内秀明代表。「大川小学校の悲劇。校庭に残った宮沢賢治の壁画と「雨ニモマケズ」の詩が我々へのメッセージ。雨にも負けず 風にも負けず そして震災にも負けず、皆で頑張ろうじゃないですか!」。

大会が立派に終わった時、ひとりの女性が話しかけてきた。「どうして『賢治とモリスの館』の話をしなかったのですか?」 代表が私費で仙台市青葉区作並に建てた『賢治とモリスの館』、今年で10年への足取りは、ここワーカーズコープ石巻にも、確実に熱烈なフアンを生んでいた。

                (こんの・ていいちろう 仙台・羅須地人協会運営委員)
 
 
 
震災後、石巻から仙台のわが老人ホームに移住した被災老人も沢山います。こもごも語るのは、「石巻のことは、思い出したくない、考えたくない、もう忘れたい!」と言いながら、「石巻のことを心配してくれて有難うございます。忘れないで下さい。」復興が絶望的ともいえる石巻の現場を見れば、その矛盾した気持ちが分かります。見るに堪えない状況が続いているのです。

 宮沢賢治が明治45年に、河蒸気で北上川を下り、日和山から始めて海を見た。賢治は何を考えたか?太平洋から北上川を遡上し、花巻のイギリス海岸、そして盛岡の材木町へ、ウィリアム・モリスの『ユートピア便り』はロンドンからテムズ川の船旅だが、それに似たイーハトボの理想郷が描かれたのではないか?

 石巻の中心部商店街も、壊滅状態から立ち直ってはいない。商店街のシンボル歴史的陶芸店「かんけい丸」、地震と津波で大量の陶器がやられた。中は片付けられているが「閉鎖中」の白い小さな張り紙が貼られただけ。大分昔
になるが、当時の石巻の市長が教え子で、依頼され商店街の近代化の計画に参与しただけに、他人事、他所事には考えられない、胸がふさぎ心が痛む。

 幸いにも「観慶丸商店」の看板とモダンなデザインの建物が残った。歴史的建造物だ。昭和の初年、ここ石巻だけでなく、東北でも山形、盛岡、弘前など、「洋風のモダンなデザイン」の建造物が建てられ、そこにウィリアム・モリスの壁紙が張られ、そうした中で宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」も書かれた。
「日本陶芸チェーン かんけい丸」 日本のアーツ&クラフツ運動、そして賢治とモリスのためにも、歴史的建造物の保存と商店街の復興を心から願う。








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# by kenjitomorris | 2014-07-24 19:23
「賢治とモリスの館」10周年、今年もオープンです。
 
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 仙台・作並「賢治とモリスの館」少し遅れ気味でしたが、今年も春がやってきました。庭のカタクリの花の群生に合わせてオープンの準備を進めてきましたが、無事にオープンしました。まだ、カタクリの花は少しですが、日当たりのよい斜面から咲き始め、これからゴールデンウイークにかけて、館の庭はピンクの絨毯を敷き詰めたように、水仙、クリスマスローズ、様々な山野草など、咲き誇ります。自然の美の極致でしょう。お出かけください。
 
 今年2014年は、2004年春に館がオープンして、丁度10年になります。2003年秋、全国的な温泉騒動に近くの旧山水亭が巻き込まれ、そのためオープンが遅れました。そんなスタートでしたから、10年間良く続いてきたと感無量です。皆さんのご協力によるものと感謝しております。心よりお礼申し上げるとともに、次の10年に向けて、一層のご協力をお願いする次第です。

 10年記念の感謝をこめて、細やかですが記念の品を準備しました。写真でご覧の『宮沢賢治の「羅須地人協会」―賢治とモリスの館開館十周年を迎えて―』の小冊子と、「賢治とモリスの館 Garden  Museum Restaurant」を染め抜いたテキスタイル(手違いでMuseum が  Museunになり、申し訳ありません)です。小冊子の内容は、本ブログに書きましたものを手直し、さらに別稿も加えました。お世話になった方々、および仙台・羅須地人協会の会員にお配りいたします。
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# by kenjitomorris | 2014-04-12 13:55
永久の未完成これ完成: 羅須地人協会の「終焉」について
 賢治の花巻・羅須地人協会については、当時の社会情勢もあり、その真実の姿が見え難いことは否定できません。それだけに、解釈が色々分かれるし、さらに推量や憶測も加わり、そのためにまた羅須地人協会の真実の姿が見えなくなってしまう。賢治研究にとっては、まことに残念なことだと思います。研究の積み重ねにより、仮象が淘汰され真実の姿が残ることを期待しましょう。

 羅須地人協会のスタートについては、賢治が花巻農学校を退職してから、という点ではっきりしています。ただ1926年(大15・昭元)3月に退職し、下根子桜の宮沢家の別荘で賢治が生活を始めた時からでもいいし、準備を経て8月の正式の設立からとみてもいいでしょう。岩手日報などの報道もあったし、対外的にも注目を集めたスタートでした。
 問題は、順調に活動した二年ほどの後、当局の弾圧が強まり、労農党の党員がメンバーだったり、賢治もシンパとして活動していたりして、羅須地人協会の活動がマークされ始めた。とくに1928年(昭3)の3・15事件(共産党に対する弾圧)に続き、4月には労農党も解散に追い込まれ、さらに10月の岩手で初の天皇行幸啓による「陸運大演習」が行われた。この大演習も、「アカ狩り」を兼ねたものとも考えられます。すでに紹介した鈴木守『羅須地人協会の終焉ーその真実ー』の検証のように、賢治や羅須地人協会も巻き込まれ、被害を免れるために使われた方便としての「嘘言」もあったし、また真実を隠蔽する「虚構」の必要もあった。そうした「虚言」「虚構」をいかに評価するかは別にして、羅須地人協会がそれに巻き込まれながら、さらに賢治の病気や満州事変の勃発が続くことになる。こうした時代の激流による混乱に巻き込まれ、羅須地人協会の活動が呑み込まれてしまった。そこに「終焉」の「真実」がある。何となく「永久の未完成これ完成である」、賢治の「農民芸術概論綱要」の「結論」の言葉が気にかかります。
 
 羅須地人協会の活動を、下根子の別荘で行われていた「集会」だけに狭く限定してしまえば、集会に賢治が出席できず、メンバーが集まらなくなれば、羅須地人協会の「終焉」とみることも出来ます。ほとんどの説明も、そのようになっている。ただ、それについても上記の1928年(昭3)の労農党の解散、6月の伊豆大島への旅行、帰花して8月に病気を理由に宮沢の実家に帰り、「蟄居・謹慎」するまで、羅須地人協会が存続したことになる。しかし、同じように協会の「消滅」を主張する青江舜二郎は、エスペラントの習得との関連から「昭和5年、過労と栄養不良ですっかり体をこわし、自宅にかつぎこまれることで協会は消滅する」と説明されている。逆に、もっと早く昭和2年の段階で、岩手日報の記事など、官憲が動き出した時点で協会の活動が事実上終わってしまった、とみる説明もあります。理由はいろいろですが、羅須地人協会の活動を、下根子の別荘の「集会」に限定すれば、弾圧と賢治の病気で活動が停止したことは事実です。その意味では、「終焉」と表現することが許されるかもしれません。
 しかし、重要な点は、賢治も、協会メンバーも、羅須地人協会の「終焉」を対外的に明言したリ、宣言してはいない。スタートの時点で、新聞に大きく報道されたのに対応した、その解散とか終結とかの確認が存在しない。活動の停止をもって、一方的に第三者が、終焉や終結、消滅の宣告をしているだけなのです。しかもそれが、賢治の活動への絶望であり、挫折であり、思想的な清算、転向と看做されているのです。「賢治が長命であればーーー<満蒙義勇団>などの活動に、貧窮農民の救済のためと信じて、積極的に協力していった可能性は多分にある」といった議論、もっと酷いのは、「もし賢治が長生きしていたら、大東亜戦争の高揚に加担していた」という仮定の推測まであります。こうなると、賢治に代わり名誉毀損で訴えたくなる、そんな失礼な話もあります。それだけに、羅須地人協会の「終焉」はもっと慎重に行うべきだし、それが賢治や協会のメンバーに対する礼儀ではないかと思います。事実として確認されるのは、羅須地人協会の活動が、上記の理由で停止され、それが中断だったのが、賢治の病気,弾圧、満州事変、そうした事情で再開できずに、中断が永久の停止、まさに「永久の未完成」に終わってしまったのではないか?

 さらに問題なのは、羅須地人協会の「終焉」が語られる時に、賢治の親しい人への私信が証拠になっている点です。例えば澤里武治への書簡で「演習が終わるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります」(昭和3年9月23日付)と述べている点が挙げられます。確かに、以前の下根子の活動に比べて「書く方」に重点を置くように読めますが、別に集会を止めるとか、羅須地人協会の解散の宣言をしている訳ではない。以前よりも書くほうを重視したい、と述べているだけです。また、つぎの書簡も「終焉」の証拠に挙げられますが、賢治が下根子の活動の時代を回顧し、親しかった愛弟子の伊藤忠一への詫び状とも言える書簡です。「殆んどあそこでは はじめからおしまいまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。」(昭和5年3月10日付)これだけ読めば、「あそこ」は下根子の別荘で、その時は「心も体も病気みたい」で、それを反省し協会の会員に詫びているようにも読めます。しかし、伊藤忠一への詫び状だとすれば、協会の集会の活動そのものではなく、近くの「川のほとりを焼き払った」件で、賢治によって忠一が「一度、たった一度だけ大きな声で怒られたこと」を指しているのではないか?伊藤与蔵「賢治聞書」(『賢治とモリスの環境芸術』所収)には、「先生の怒り」として、詳しく事情が紹介されています。それを読めば、賢治が詫びているのは、忠一を叱ったこと、その叱り方に過ぎないのではないか?
 私信を利用するのは否定しませんが、私信はあくまでも私信、公的なものではない。私信をもって、公的だった羅須地人協会の活動の「終焉」を決定付けるのは疑問です。とくに伊藤忠一への詫び状などは、伊藤与蔵の「先生の怒り」の内容を知らなければ、第三者には良く分からない。また、第三者に分からないのが、そもそも私信であり、私信を使うことは慎重にすべきではないかと思います。賢治も人間ですから、感情の起伏は免れない。とくに賢治は、起伏の幅が大きいように見えますが、それだけに個人的な感情の変化が、とくに私信には出ることにもなったのでしょう。いずれにしても私信でも、羅須地人協会の活動を停止し、組織として解散したような意味で「終焉」は確認できないと思います。
 
 つぎに、「羅須地人協会」の活動の範囲です。別に法人化して、規約や定款があったわけではない。狭く限定すれば、上記のように下根子の「集会」だけになりますが、もともと羅須地人協会は近代的な学校制度を超えた「自由学校」だった。学校の教室での座学の形式にこだわらず、自然や田畑に入り、実習したり、農家の手伝いをしながら、農業・農村改革を進める教育だった。だから肥料相談所も作る、花巻温泉の花壇設計もやる、個別の稲作相談もする、農村を廻って多岐な活動を展開したのです。東北砕石工場の「技師」の仕事もまた、広義の羅須地人協会活動だったのではないか?賢治もそうだし、協力した協会メンバーも、広い活動に参加協力していたと思います。とくに官憲の弾圧が、演劇とか集会などの集団的活動に向けられていたので、そのため弾圧を逃れる手段として下根子の「集会」を一時的に停止し、組織の活動を防衛していたように思われます。それを姑息な手段と見るか、賢明な組織の防衛の方法と見るか、見方が分かれるかも知れません。しかし、あの時代の組織の運動としては、止む終えない方法だったと思います。
 また、すでに紹介したように、花巻「羅須地人協会」は、そもそもが花巻の地で孤立して始まったものではない。デンマークやイギリス、さらに東京や大阪の労働学校、近代的な義務教育の学校制度を超える、超近代の「自由学校」であり農芸学校だった。そうした新しい教育運動の高まりに賢治が花巻で応えようとした。そのためウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動を受け止め、その上で「農民芸術概論綱要」が「教育基本法」だったのです。そして、そうした教育運動、農村改革運動だったから、伊藤七雄の「大島・農芸学校」や松田甚次郎の山形・新庄「最上共働村塾」などが計画され、立ち上がり活動した。姉妹校のネットワークです。しかも、伊豆大島では農産加工や水産加工の事業も計画され、そのために賢治は仙台・商工会議所の産業博覧会で関連資料を集めたし、山形・新庄では農村福祉の事業や、女性解放も活動の中に取り込んだ。賢治の花巻・羅須地人協会は、そうしたネットワークで考えれば、活動は多様だし拡大している。下根子の「集会」だけに狭く限定して、その「終焉」を論ずることは、賢治「羅須地人協会」の矮小化になるだけでしょう。

 「羅須地人協会」の真実と実像は、この時期の賢治研究により、今後さらに明らかにされると思います。ただ、賢治もそうだったし、協会に集まったメンバーも、弾圧や戦争、そして賢治の病気で中断されていた下根子の「集会」が再開され、皆で集まる日が来るのを待っていた、そのことだけは否定できないと思います。それは、伊藤与蔵「賢治聞書」に、満州事変のため召集され、1933年(昭8)賢治から「御武運之長久」を祈念する年賀状を貰った与蔵さんが、満州から大事に持ち帰った賀状を胸に、すでに他界した賢治を偲び、下根子の別荘を訪れたときの言葉です。
 「先生はいつも明るく話の途中によく笑われる方でした。昭和8年の1月に先生から筆元のしっかりした年賀状を満州でいただきました。私は先生が元気になられただろうとばかり考えていましたので、国へ帰ったなら又先生からいろいろ指導をいただけると思って楽しみにしていましたが、帰った時はもうお亡くなりになったあとでした。」
 賢治と与蔵さん達の思いは、ここで疑う余地はないと思う。その思いと共に、大島・農芸学校や最上共働村塾の活動は広がり、さらに2011年東日本大震災の復興の今日もまた、賢治精神が人々の胸に蘇ってくる。賢治の目指したイーハトヴォの世界、ウィリアム・モリスの二十二世紀の「理想郷」に向けて、我々が仙台・羅須地人協会を発足させた意図もまた、ここにあるのです。 


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# by kenjitomorris | 2014-03-11 20:59



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