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永久の未完成これ完成: 羅須地人協会の「終焉」について
 賢治の花巻・羅須地人協会については、当時の社会情勢もあり、その真実の姿が見え難いことは否定できません。それだけに、解釈が色々分かれるし、さらに推量や憶測も加わり、そのためにまた羅須地人協会の真実の姿が見えなくなってしまう。賢治研究にとっては、まことに残念なことだと思います。研究の積み重ねにより、仮象が淘汰され真実の姿が残ることを期待しましょう。

 羅須地人協会のスタートについては、賢治が花巻農学校を退職してから、という点ではっきりしています。ただ1926年(大15・昭元)3月に退職し、下根子桜の宮沢家の別荘で賢治が生活を始めた時からでもいいし、準備を経て8月の正式の設立からとみてもいいでしょう。岩手日報などの報道もあったし、対外的にも注目を集めたスタートでした。
 問題は、順調に活動した二年ほどの後、当局の弾圧が強まり、労農党の党員がメンバーだったり、賢治もシンパとして活動していたりして、羅須地人協会の活動がマークされ始めた。とくに1928年(昭3)の3・15事件(共産党に対する弾圧)に続き、4月には労農党も解散に追い込まれ、さらに10月の岩手で初の天皇行幸啓による「陸運大演習」が行われた。この大演習も、「アカ狩り」を兼ねたものとも考えられます。すでに紹介した鈴木守『羅須地人協会の終焉ーその真実ー』の検証のように、賢治や羅須地人協会も巻き込まれ、被害を免れるために使われた方便としての「嘘言」もあったし、また真実を隠蔽する「虚構」の必要もあった。そうした「虚言」「虚構」をいかに評価するかは別にして、羅須地人協会がそれに巻き込まれながら、さらに賢治の病気や満州事変の勃発が続くことになる。こうした時代の激流による混乱に巻き込まれ、羅須地人協会の活動が呑み込まれてしまった。そこに「終焉」の「真実」がある。何となく「永久の未完成これ完成である」、賢治の「農民芸術概論綱要」の「結論」の言葉が気にかかります。
 
 羅須地人協会の活動を、下根子の別荘で行われていた「集会」だけに狭く限定してしまえば、集会に賢治が出席できず、メンバーが集まらなくなれば、羅須地人協会の「終焉」とみることも出来ます。ほとんどの説明も、そのようになっている。ただ、それについても上記の1928年(昭3)の労農党の解散、6月の伊豆大島への旅行、帰花して8月に病気を理由に宮沢の実家に帰り、「蟄居・謹慎」するまで、羅須地人協会が存続したことになる。しかし、同じように協会の「消滅」を主張する青江舜二郎は、エスペラントの習得との関連から「昭和5年、過労と栄養不良ですっかり体をこわし、自宅にかつぎこまれることで協会は消滅する」と説明されている。逆に、もっと早く昭和2年の段階で、岩手日報の記事など、官憲が動き出した時点で協会の活動が事実上終わってしまった、とみる説明もあります。理由はいろいろですが、羅須地人協会の活動を、下根子の別荘の「集会」に限定すれば、弾圧と賢治の病気で活動が停止したことは事実です。その意味では、「終焉」と表現することが許されるかもしれません。
 しかし、重要な点は、賢治も、協会メンバーも、羅須地人協会の「終焉」を対外的に明言したリ、宣言してはいない。スタートの時点で、新聞に大きく報道されたのに対応した、その解散とか終結とかの確認が存在しない。活動の停止をもって、一方的に第三者が、終焉や終結、消滅の宣告をしているだけなのです。しかもそれが、賢治の活動への絶望であり、挫折であり、思想的な清算、転向と看做されているのです。「賢治が長命であればーーー<満蒙義勇団>などの活動に、貧窮農民の救済のためと信じて、積極的に協力していった可能性は多分にある」といった議論、もっと酷いのは、「もし賢治が長生きしていたら、大東亜戦争の高揚に加担していた」という仮定の推測まであります。こうなると、賢治に代わり名誉毀損で訴えたくなる、そんな失礼な話もあります。それだけに、羅須地人協会の「終焉」はもっと慎重に行うべきだし、それが賢治や協会のメンバーに対する礼儀ではないかと思います。事実として確認されるのは、羅須地人協会の活動が、上記の理由で停止され、それが中断だったのが、賢治の病気,弾圧、満州事変、そうした事情で再開できずに、中断が永久の停止、まさに「永久の未完成」に終わってしまったのではないか?

 さらに問題なのは、羅須地人協会の「終焉」が語られる時に、賢治の親しい人への私信が証拠になっている点です。例えば澤里武治への書簡で「演習が終わるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります」(昭和3年9月23日付)と述べている点が挙げられます。確かに、以前の下根子の活動に比べて「書く方」に重点を置くように読めますが、別に集会を止めるとか、羅須地人協会の解散の宣言をしている訳ではない。以前よりも書くほうを重視したい、と述べているだけです。また、つぎの書簡も「終焉」の証拠に挙げられますが、賢治が下根子の活動の時代を回顧し、親しかった愛弟子の伊藤忠一への詫び状とも言える書簡です。「殆んどあそこでは はじめからおしまいまで病気(こころもからだも)みたいなもので何とも済みませんでした。」(昭和5年3月10日付)これだけ読めば、「あそこ」は下根子の別荘で、その時は「心も体も病気みたい」で、それを反省し協会の会員に詫びているようにも読めます。しかし、伊藤忠一への詫び状だとすれば、協会の集会の活動そのものではなく、近くの「川のほとりを焼き払った」件で、賢治によって忠一が「一度、たった一度だけ大きな声で怒られたこと」を指しているのではないか?伊藤与蔵「賢治聞書」(『賢治とモリスの環境芸術』所収)には、「先生の怒り」として、詳しく事情が紹介されています。それを読めば、賢治が詫びているのは、忠一を叱ったこと、その叱り方に過ぎないのではないか?
 私信を利用するのは否定しませんが、私信はあくまでも私信、公的なものではない。私信をもって、公的だった羅須地人協会の活動の「終焉」を決定付けるのは疑問です。とくに伊藤忠一への詫び状などは、伊藤与蔵の「先生の怒り」の内容を知らなければ、第三者には良く分からない。また、第三者に分からないのが、そもそも私信であり、私信を使うことは慎重にすべきではないかと思います。賢治も人間ですから、感情の起伏は免れない。とくに賢治は、起伏の幅が大きいように見えますが、それだけに個人的な感情の変化が、とくに私信には出ることにもなったのでしょう。いずれにしても私信でも、羅須地人協会の活動を停止し、組織として解散したような意味で「終焉」は確認できないと思います。
 
 つぎに、「羅須地人協会」の活動の範囲です。別に法人化して、規約や定款があったわけではない。狭く限定すれば、上記のように下根子の「集会」だけになりますが、もともと羅須地人協会は近代的な学校制度を超えた「自由学校」だった。学校の教室での座学の形式にこだわらず、自然や田畑に入り、実習したり、農家の手伝いをしながら、農業・農村改革を進める教育だった。だから肥料相談所も作る、花巻温泉の花壇設計もやる、個別の稲作相談もする、農村を廻って多岐な活動を展開したのです。東北砕石工場の「技師」の仕事もまた、広義の羅須地人協会活動だったのではないか?賢治もそうだし、協力した協会メンバーも、広い活動に参加協力していたと思います。とくに官憲の弾圧が、演劇とか集会などの集団的活動に向けられていたので、そのため弾圧を逃れる手段として下根子の「集会」を一時的に停止し、組織の活動を防衛していたように思われます。それを姑息な手段と見るか、賢明な組織の防衛の方法と見るか、見方が分かれるかも知れません。しかし、あの時代の組織の運動としては、止む終えない方法だったと思います。
 また、すでに紹介したように、花巻「羅須地人協会」は、そもそもが花巻の地で孤立して始まったものではない。デンマークやイギリス、さらに東京や大阪の労働学校、近代的な義務教育の学校制度を超える、超近代の「自由学校」であり農芸学校だった。そうした新しい教育運動の高まりに賢治が花巻で応えようとした。そのためウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動を受け止め、その上で「農民芸術概論綱要」が「教育基本法」だったのです。そして、そうした教育運動、農村改革運動だったから、伊藤七雄の「大島・農芸学校」や松田甚次郎の山形・新庄「最上共働村塾」などが計画され、立ち上がり活動した。姉妹校のネットワークです。しかも、伊豆大島では農産加工や水産加工の事業も計画され、そのために賢治は仙台・商工会議所の産業博覧会で関連資料を集めたし、山形・新庄では農村福祉の事業や、女性解放も活動の中に取り込んだ。賢治の花巻・羅須地人協会は、そうしたネットワークで考えれば、活動は多様だし拡大している。下根子の「集会」だけに狭く限定して、その「終焉」を論ずることは、賢治「羅須地人協会」の矮小化になるだけでしょう。

 「羅須地人協会」の真実と実像は、この時期の賢治研究により、今後さらに明らかにされると思います。ただ、賢治もそうだったし、協会に集まったメンバーも、弾圧や戦争、そして賢治の病気で中断されていた下根子の「集会」が再開され、皆で集まる日が来るのを待っていた、そのことだけは否定できないと思います。それは、伊藤与蔵「賢治聞書」に、満州事変のため召集され、1933年(昭8)賢治から「御武運之長久」を祈念する年賀状を貰った与蔵さんが、満州から大事に持ち帰った賀状を胸に、すでに他界した賢治を偲び、下根子の別荘を訪れたときの言葉です。
 「先生はいつも明るく話の途中によく笑われる方でした。昭和8年の1月に先生から筆元のしっかりした年賀状を満州でいただきました。私は先生が元気になられただろうとばかり考えていましたので、国へ帰ったなら又先生からいろいろ指導をいただけると思って楽しみにしていましたが、帰った時はもうお亡くなりになったあとでした。」
 賢治と与蔵さん達の思いは、ここで疑う余地はないと思う。その思いと共に、大島・農芸学校や最上共働村塾の活動は広がり、さらに2011年東日本大震災の復興の今日もまた、賢治精神が人々の胸に蘇ってくる。賢治の目指したイーハトヴォの世界、ウィリアム・モリスの二十二世紀の「理想郷」に向けて、我々が仙台・羅須地人協会を発足させた意図もまた、ここにあるのです。 


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by kenjitomorris | 2014-03-11 20:59



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