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大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会(補足)
 今年は賢治没後80年、9月21日の賢治祭は参加者も多く、行事も多彩だったようです。例年通り、今年が4回目の参加ですが、イーハトーブ館で「賢治の里で賢治を読む」朗読会に参加、「シニアネット仙台」朗読グループ「注文の多い料理店」のメンバー10名が「なめとこ山の熊」を群読しました。この朗読会も、例年より参加グループが多くなり、割り当ての時間が短くなりました。3・11東日本大震災を体験し、明治三陸大津波(1896)、昭和三陸大津波(1933)の賢治の生と死から生まれた賢治文学、羅須地人協会などの生き様を学ぶ「賢治ブーム」を実感しました。
 

 朗読会への参加の機会に、今回も宮沢賢治記念館に立ち寄り、副館長の牛崎さんの計らいで、大島・農芸学校に関連した資料を頂戴しました。
 
 
      「 企画展示 大島「三原三部」展 宮沢賢治の原風景・パート3 」

 この企画展示は、1994年12月1日から95年7月31日まで、宮沢賢治記念館で行われ、監修・解説は萩原昌好(埼玉大学教授)でした。萩原昌好『宮沢賢治「修羅」への旅』(朝文社1994年12月刊)に、ほぼそっくり転載されていますが、19ページに及ぶ立派なパンフが作成され、そこに詳細な資料が掲載されています。大島・農芸学校を中心に、主要な論点に纏めて紹介しましょう。

 (1)賢治の大島旅行の目的は、もっぱら大島・農芸学校の設立に関する相談だった。
 賢治の大島訪問は、伊藤七雄氏の妹、伊藤チエとの関係が重視されているが、それは誤りであり訪問の目的は、ひとえに大島・農芸学校の設立にあった。その点は、「賢治に関する研究書や評論に、チエさんと賢治との関係(見合いとか結婚の対象とか)をさまざまに書いているが、昭和3年の6月に大島で会った時も<おはようございます><さようなら>と言った程度の挨拶をかわしただけで、それ以上のものではなかった。」という聞き書きが紹介されている。
 (2)大島・農芸学校との関係で、賢治は往路、仙台・水戸に立ち寄り、視察・見学している。
 賢治は、昭和3年6月7日に花巻を出発しているが、まず仙台で仙台商工会議所主催の「東北産業博覧会」を視察している。そこでは、とくに水産加工品、菓子など農産製造品など、重点的に見ている。その上で、父上政次郎あてに書簡を出しているが、「書簡中に水産加工品と農産製造品との連絡に着目している点に注目すべきで、これは大島での未来像を描く一資料ともなるし、自己の将来計画を立てる何かを模索しての発言とも思われる。」さらに夜行で水戸に赴くが、ここでも農事試験場に立ち寄っているが、「賢治は盛岡高等農林を卒業し、昭和3年にはすでに農学校教諭を辞して羅須地人協会を設立していたのであるから、専門的分野よりも練習生制度にむしろ自身も興味を示し、併せて大島の伊藤七雄氏の設立する農芸学校への参考資料を収集したものと考えられる。」このように農芸学校設立の基本的資料を整え、自分なりの理想と計画を準備して大島へ向かったのである。
 (3)大島・農芸学校に関する資料も沢山展示され、1931年(昭6)に開校したことは間違いないこと。
 大島・農芸学校の跡地の写真、跡地の2万坪の推定図、『島乃新聞』の農芸学校関連記事、生徒募集や「入学希望者心得」、名誉校長、校長、評議員、賛助員の連名による挨拶文、などが展示されている。ただ、昭和6年8月26日に伊藤七雄氏が死去、それでも大島支庁が翌昭和7年3月、市庁員一同が学校の継続を決めている。従って、農芸学校が計画倒れで消えたのではなく、設立され開校に漕ぎ着けたことは間違いない事実である。しかし、七雄氏の死去などの事情により、生徒募集がうまくいかず、その後自然消滅したのであるが、その点についても「結果として七雄氏の理想は成らず、立ち消えのような結果になった」とされている。
 (4)大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会には、伊藤七雄と賢治の共通の理念で結ばれていた。
 大島・農芸学校は、結果的には自然消滅のような形で閉校になったが、展示では「七雄氏の情熱は一方ならぬものがあったと思われるものが現在遺されている。それは『藻屑の夢』と題する創作で、おそらくは未完成。<島乃新聞>と突き合わせてみると、農芸学校の夢を大島の航路の便を図ること、酪農の隆盛を意図するべく連合青年団の結成を願ったものと思われる。併せて、賢治の語る園芸面、農作面での方法が具体化されて居れば、七雄氏、賢治にとって、本来の<夢>の一端が具体化されたものを、と思うと返す返す残念である。」さらに昭和5年に七雄氏が「島乃新聞」に寄稿した文章には「最近では此の近代的渡世に中毒した様々な人々も沢山見受けられる様で、また一方には時代に遅れて日々生活難をかこつという人々もある。」「元々人々各頭髪より臓物に到るまで<私>というべき程の物もない訳で、精神も肉体も天地萬有の精華であります。だから根本から言いますと元々<私>とか<我>とか言うものは無いのでありまして、有ると思うのは一つの仮想であります。で社会の文化は刻々と変化しつつあるものでその組織生活方法に於きましては種々工夫も必要でありましょうが、要は社会の幸も不幸も、一身上の幸も不幸も只お互いが能く誠を尽して公に奉ずると否とに存すると信じます。」という個所に賢治の持つ理想と相通ずるところが見られる、と紹介されている。

 いずれにしても宮沢賢治記念館の「企画展示」は、大島・農芸学校について詳細に紹介し、賢治が伊藤七雄氏に協力しながら、花巻・羅須地人協会と緊密に連携し、組織的にもネットワーク化しようとしていた事情が明らかにされています。さらに、こうした協力体制の中で、花巻・羅須地人協会の活動そのものも、園芸面、農作面、酪農面など多様化することが模索されていたし、仙台商工会議所の「東北産業博覧会」視察を踏まえて、水産加工、農産加工への多角化が検討されていたことも窺われるます。
 ただ、伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』などが提起している、大島・農芸学校の伊藤七雄氏が、もともと労農党の浅沼稲次郎氏などにつながる幹部であり、労農派の農民運動との連携などもあった点については、全く触れていません。その点は、企画展示に関与した上記、牛崎副館長が全国的な「新しい学校」の動きとの関連の重要性を示唆されていたことは、一応紹介しておきましょう。
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by kenjitomorris | 2013-09-23 16:39



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