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大島・農芸学校と花巻・羅須地人協会
 宮沢賢治の花巻・羅須地人協会は、1926年(大15、昭元)にスタートし、集会などの集団的行為は、当局の眼圧などを考慮して、約2年半で中断しました。とくに1928年(昭3)の3.15事件などの影響が大きかったのでしょうが、ただ羅須地人協会の花壇設計や肥料相談などの活動は続けられたし、さらに3・15事件の前後にも、賢治は「農民芸術学校」としての羅須地人協会に関連して、重要な活動をしています。
 その年の6月、賢治は上京し、さらに伊豆大島を訪れ、伊藤七雄氏の計画していた「大島・農芸学校」の相談に乗っています。この時の様子が「三原三部」に述べられていますが、「大島・農芸学校」の企画は、おそらく「花巻・羅須地人協会」を参考にし、それをモデルにしようとした点で、いわば姉妹校の構想だったとも言えるでしょう。こうした動きは、その前の年1927年(昭2)に、盛岡高等農林の後輩で、山形県最上郡鳥越村で「郷土文化の確立、農村芸術の振興」に励みながら、「鳥越倶楽部」で活動していた松田甚次郎が、「花巻・羅須地人協会」の賢治に教えを乞いに来訪していた、そうした「新しい学校」のネットワークづくりとも連動していた。さらに言えば、高等農林からの親友だった保坂嘉内の山梨・韮山の「花園農村」の活動も、間接的でしょうが、関連していたように思われます。
 なお、岩手国民高等学校と賢治の羅須地人協会の関連など、当時の教育制度の改革の動きについて、前述の佐藤 成『宮沢賢治 地人への道』の中で、「塾風教育施設」の設置状況の資料を挙げています。(下図参照)ご覧のように、塾風教育施設が大正の末から昭和の初めにかけて、全国的に急増していることが判ります。設置目的も「農村中堅人物の要請」が大部分ですが、賢治の花巻・羅須地人協会も、それらの中の一つだったのでしょう。自由学校的な塾風教育の「新しい学校」づくりが、国民高等学校などと並んで、「農村中堅人物の育成」など、内外で教育改革の大きな高まりを見せていた。要するに賢治の羅須地人協会は、花巻の下根子・桜での「下の畑」の閉ざされた空間での活動ではない。近代社会の学校教育の限界を越える「新しい学校」づくり、農村芸術による地域づくりの改革運動に、深い繋がりをもっていた点を看過すべきではないと思うのです。
 そこで「大島・農芸学校」ですが、6月に賢治が伊豆大島を訪問する前に、伊藤七雄氏の方が1928年春と言われていますが(前年秋とも言われている)、花巻に賢治を訪れていました。「伊藤七雄、チエの兄妹が豊沢町の宮沢家を尋ねてきたので、下根子に居る賢治が実家に呼び返されたという(森荘巳池『宮沢賢治の肖像』)」ことがあり、その返礼の意味もあって、賢治の伊豆大島行きとなったのでしょう。この大島行きは、もっぱら賢治と伊藤の妹チエとの婚約に関連した話題が有名になったようですが、婚約の話は賢治が辞退して終わりました。それとは別に、というより賢治と伊藤七雄の関係では、むしろ「大島・農芸学校」の話題が重要だったと思います。東北・岩手の地で立ち上げ、一定の影響力をもった花巻・羅須地人協会の経験から、「新しい学校」作りを学び、連携しようと思っていたのではないか?そこで伊藤七雄氏ですが、まず伊藤光弥『イーハトーヴの植物学』では、次のように紹介されています。
 「賢治の友人の一人に伊藤七雄がいる。伊藤(明31~昭6)は水沢生まれ。浅沼稲次郎とも親交がある労農党員であった。その後、大島に土地を求めて移住、島に農芸学校を設立しようとして賢治の意見を求めていたようである。しかし、諸般の事情から学校の設立は断念のやむなきに至っている。---労農党稗和支部の設立に頑張った賢治と労農党本部役員だった伊藤七雄との接点は、大正十五年十月三十日の労農党盛岡支部大会か稗和支部大会が開催された十月三十一日にあったのではないだろうか。伊藤と賢治は盛岡か花巻の労農党支部大会で知り合い、昭和三年春には、伊藤が妹を連れて賢治を尋ねるまでの親しい仲になっていたものと思われる。賢治は同年六月、伊豆大島に伊藤を訪ねているが、これもかねての約束による旅だったのではないだろうか。」
 まず、伊藤七雄の兄妹は水沢出身ですが、もう少し説明しますと「伊藤七雄は胆沢郡水沢町の豪商の出で、ドイツ留学中に胸を患い、療養のために伊豆の大島に転地し、ここに土地を買い家も建てて暮らしていた。妹は兄を看病していた。」(堀尾青史『年譜 宮沢賢治伝』)七雄は、日中交換学生の実現、関東大震災では朝鮮人学生の保護など、広く大胆に活躍していた。大島療養でも、健康が回復してきたので現地に大島・農芸学校を設立しようと考え、同じ東北・岩手の地縁、また宮沢家との関係を頼りに、妹チエを伴っての花巻訪問となったようです。さらに七雄と賢治の関係では、上記の通り労農党の盛岡、稗和両支部での活動がありました。七雄は労農党の幹部、浅沼稲次郎や大山郁夫ですから早稲田の建設者同盟の系統でしょうが、その理論家と思われます。
 建設者同盟ですが、1919年(大8)に、東京帝大における新人会の結成に刺激され、早稲田大学を中心に結成された学生運動の団体です。はじめ学生団体「民人同盟」として発足しましたが、浅沼稲次郎、稲村隆一、三宅正一などが脱退し、早大教授の北沢新次郎を顧問に、新たに結成された組織です。当初は、比較的穏健な活動を続け、大山郁夫、山川均などを講師に迎えた研究会を中心に、啓蒙活動を続けながら、早稲田大学だけでなく東大、慶大、明大など大学横断的な組織に発展した。さらに北沢の指導もあり、東大の新人会が労働団体の友愛会との結びつきが強いので、建設者同盟は農民運動と結びつき、次第にそれまでの研究・啓蒙活動から、日本農民組合の組織活動を指導することになった。その後1923年春、早大の学内団体から学外を中心の社会主義団体に再編、浅沼、三宅などは農民運動の指導者となり、さらに1926年には無産政党の結成をめぐる党の分裂の中で、単一無産政党としての労働農民党から、中間的な日本労農党の結党に参加したと言われています。こうした労農党のブレーンとして、伊藤七雄が宮沢賢治の労農党シンパの活動、「新しい学校」羅須地人協会の役割、さらに東北の地縁からも賢治の活躍に注目し、それを高く評価した。そして、自らも伊豆大島に農芸学校を創る決断をしたのでしょう。その上で、具体的な相談や協力を仰ぐために花巻への来訪があった、と思われます。
 伊豆大島の農芸学校、確かに成功しませんでしたが、1931年(昭6)には開校に漕ぎ着けたそうです。だから、「学校の設立は断念」したわけではない。ただ、開校の直後1932年1月に七雄が死去したので、廃校に至ったそうです。こうした大島・農芸学校との関係を考えると、花巻・羅須地人協会を切り離し、それだけ孤立させて下根子・桜での集会の一時中断だけから、賢治の挫折、失敗、絶望と悲劇的に見るのには疑問を感じます。大島・農芸学校との関連を見れば、労農派の活動と結びつきながら、「新しい学校」への新たな教育実践に賢治が挑戦し、伊藤七雄もそれへの連帯の動きを示していたのです。さらに花巻と伊豆大島だけではない。当時、農民芸術を通した農村・農民改革の運動が、各地で広がり始めていた。大阪や東京では、すでに「大阪労働学校」の例を紹介しましたが、都市型の「新しい学校」の教育改革も進められていました。
 こうした「新しい学校」の教育改革は、ロシア革命、ボルシェビズム=マルクス・レーニン主義、そしてプロレタリア独裁の「国家社会主義」からは絶対に生まれない改革実践です。マルクスからモリスへの共同体社会主義、そして堺利彦や山川均の土着日本型労農派社会主義の水脈を、東北の地で宮沢賢治の豊かな感性が受容した、それが花巻・羅須地人協会の「新しい学校」の教育実践だったのではないでしょうか?
 
 
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by kenjitomorris | 2013-08-24 08:10
大阪労働学校と大原社会問題研究所
 宮澤賢治の羅須地人協会が、花巻農学校のような官制の学校ではなく、自由学校としての私塾に近いものであり、当時ヨーロッパではデンマークやイギリス各地に設立されていた、それらを参考にしていました。それだけでなく、すでに日本でも1920年代、全国的に「会社が作った養成所や政府や自治体が経営した労働学校ではない、いわゆる<独立労働者教育>を目指した学校で10年以上続いたのは東京と大阪だけでした」(二村一夫著作集「大阪労働学校の人びと」)、そうした独立した労働・農民学校を、賢治もまた東北・花巻の地に旗上げした、それが羅須地人協会だったように思います。
 そこで大阪労働学校ですが、二村一夫氏の説明を要約しましょう。設立は、1922年(大11)で、16年間存続したが、学生数は少なく、多いときでも一クラス50-60名、月水金の週3回、しかも夜学だった。入学者の延べ人数も2000人ほどの小さな学校だった。この学校の特徴は、少人数にもかかわらず、「独立労働者教育」を目指していたこと、しかも教授陣が大変豪華だったことです。キャッチフレーズは「ブルジョアに大学あり、プロレタリアは労働学校へ」でしたが、教授陣は大学並み、否それ以上でした。
 学長クラスが、大内兵衛、森戸辰男など、学者では高野岩三郎、櫛田民蔵、新明正道、運動家として細迫兼光、川上丈太郎、杉山元治郎、ジャーナリストは笠信太郎、尾崎秀美など、多士済々、錚々たる陣容だったと思います。この教授陣と卒業生たちは、第二次大戦の戦中から戦後にかけて、大変大きな社会的影響力を発揮した点が注目されます。二村氏は「その多くの関係者の中から、労働学校で中心的な役割を果たした人を数人選び、その人々を通して大阪労働学校の歩みを明らかにしてみたい」と述べています。
 まず筆頭の人物は、学校創立の中心になった加川豊彦です。彼は1888年(明21)に神戸に生まれ、関西を中心に大正・昭和のキリスト教社会主義の運動家で、戦前日本の労働運動、農民運動、労農党など無産政党運動、灘生協など生活協同組合運動で活躍し、「貧民街の聖者」として国際的にも有名です。戦後の日本社会党の結党の中心人物でした。
 「大阪労働学校創立の中心となったのは賀川豊彦です。その他にも大阪毎日の記者の村島帰之、総同盟大阪連合会の西尾末広も熱心でした。しかし、学校の創立基金として当時の金で5000円、今なら2500万円にもあたる大金を出し、初代の校長となり、創設期の大阪労働学校の性格を決めたのは賀川でした。」賀川は神戸神学校の在学中から神戸のスラム街に住み込み、貧民救済に活動しましたが、賢治同様に結核に罹りました。しかし活動の中で結核を克服、その体験などを描いた自伝小説『死線を越えて』が、当時の大ベストセラーとなり、その印税を労働学校設立に提供したそうです。
 賀川は、1914年アメリカに留学、労働組合運動の重要性を学び、1917年帰国後、日本でも労働運動が本格的に発展する中で、鈴木文治の友愛会に参加し、関西地方のトップリーダーになる。そして1921年には神戸の三菱造船所、川崎造船所の大争議の指導に当たりましたが、最終的には組合側の敗北、ちょうどその時点で、大阪労働学校の創立計画が持ち上がり、賀川は資金提供だけでなく校長としても協力しました。「愛にもとづく人格運動」として、労働者教育の重要性を強調しましたが、日本農民組合や「イエスの友」会、上記の「日本一のマンモス生協」神戸・灘生協などの多彩な社会的活動で多忙を極めました。
 そうした中で、大阪労働学校の特徴は、学生達が学校の運営に自主的に参加し、自主運営を進めた点です。学校の主事が不在でも、学生委員会が自主的に学校を運営し、学生委員長が主事の代わりを務める。そればかりか「労働組合論」「選挙戦術論」などの講義は、学生自らが講師を務め、それこそ「教師も学生、学生も教師」の教育=共育の教育実践だったのです。こうした学生たちの自主的な努力とともに、白樺派の作家・有島武郎の遺産による「労働者教育会」からの資金援助もあり、さらに「有島財団」が学校専用の土地と建物を買ってくれました。
 「この校舎の取得の際、またその後の大阪労働学校の発展の上で重要な役割りを果たしたのは、当時、天王寺にあった大原社会問題研究所の所長・高野岩三郎です。彼は学生委員会にかわって組織された大阪労働学校運営委員会の責任者になることを進んで引き受け、財政問題解決のために熱心に働きます。彼は自分の著書の印税をそっくり寄付しただけでなく、友人、知人を説いて同校の後援会員とし、毎月10円づつの寄付を約束させました。」
 高野岩三郎が非常な肩入れをした理由について、彼の実兄の高野房太郎が、アメリカ労働運動を学び、日本で最初に近代的労働組合をはじめたこと。しかも実弟の岩三郎のために、長期にわたり学資を送り続けながら、35歳の若さで青島で夭折した、その遺志に報いること、などを挙げています。高野兄弟が労働運動、社会主義にとって、教育活動の重要性を深く認識していたことが、大阪労働学校への協力となっていたわけです。そして、高野が運営委員長になったことにより、さらに大原社会問題研究所が全体として、労働学校の運営、教育に協力することにもなりました。単に授業の講師を引き受けるだけでなく、運営委員や会計事務まで大原社研のメンバーが協力したのです。
 ここで大原社会問題研究所の名前が出ましたが、この大原社研と略称される研究所は、非常にユニークな存在でした。すでに説明しましたが(setohara.exblob.jp 賢治とモリス<研究ノート>を参照)、今日なお日本の美術館を代表する岡山県倉敷市の「大原美術館」を創立したのは、倉敷紡績株式会社の創業者で社長の大原孫三郎でした。彼は、私財を投じて一方で大原美術館、他方で大原社研を創立、日本で始めて社会科学系の民間研究所を設立しました。そこからは、何とはなしにモリス達のアーツ&クラフツ運動の「芸術を暮らしに生かす」社会主義の思想が連想されるように思います。さらに、モリス・バックスの『社会主義』から日本で初めて本格的なマルクス『資本論』解説を「大阪平民新聞」に連載した山川均、彼も倉敷の出身で、大原孫三郎とは同級生の間柄でした。そして山川均と言えば堺利彦、こうした人脈、地縁のつながりもあり、高野岩三郎を中心に大原社研は、いわゆる労農派の教授グループのバックアップ組織として、極めて大きな役割を果たしていました。しかも大原社研は、大阪・天王寺に開設されましたが、東京には事務所が置かれました。東京と関西の教授グループは、大原社研との関係もあって、高野岩三郎運営委員長への協力のもと、こぞって大阪労働学校の講師陣に参加し、当時他には見られない豪華スタッフが揃ったのです。
 労農派は、ソ連によるコミンテルン指導の下に再建された日本共産党に対抗した、雑誌『労農』の同人ですが、単一の無産政党「労農党」の結成を目指していました。同時に、ブレーンの研究者集団として「教授グループ」、さらに大原社研や大阪労働学校などの多様な社会的組織の協同・連帯の運動体だったように思います。とくに労働学校のような労働者教育を重視していましたが、それはまたロシア革命のようにプロレタリア独裁で国家権力を奪取し、上から社会主義を「外部注入」するボルシェビズム(マルクス・レーニン主義)を否定していたからです。あくまでも労働者や農民が、自主的・主体的に自らの「働き方」や「暮らし方」、そして「生き方」を変革して社会主義を実現する、そうしたモリスなどのアーツ&クラフツ運動を基礎にした「ハマスミス社会主義協会」などの教育実践を重視したのです。その点で大原社研と大阪労働学校は、労農派社会主義の貴重なモデルだったと思います。
 大阪労働学校に戻りますが、大原社研の協力を得て活動が充実しましたが、二村氏はそこで森戸辰男氏の活躍をあげています。「その一人として森戸辰男がいます。---彼は高野を助け、大阪労働学校の経営に非常な力を注ぎました。彼は第10期以降第45期まで13年間に亘って1回の休みもなく無給で講師を続け、また運営委員会にもほとんど皆出席です。彼がいなかったら大阪労働学校はもっと早くつぶれていたかも知れません。
 その森戸辰男は、戦後、片山内閣の文部大臣として教育改革に関与しました。その後も中央教育審議会の会長など、現在の日本の教育に大きな影響力をもってきました。彼にとっての教育、とくに社会教育の原体験は大阪労働学校でした。」戦後の教育の評価はともかく、森戸が日中戦争開始直後の第45期まで、つまり閉校まで大阪労働学校の教育、運営に協力した点は高く評価すべきでしょう。さらに森戸の研究面での業績ですが、森戸は有名な「森戸事件」で大内兵衛とともに東大を去りました。その時の研究は、アナーキストのクロポトキン研究でしたが、その後大原社研に移ってからの研究はウィリアム・モリスでした。その研究成果が、1938年(昭13)に大教育家文庫の『オウエン モリス』岩波書店刊として纏められています。最終章のタイトルは「教育史上におけるモリスの地位」です。
 森戸のモリス研究は、マルクスからモリスへの共同体社会主義にとって、教育の意義を重点的に研究したもので、特にモリスのハマスミス社会主義協会については、その政治的活動としてよりも、むしろ社会主義に関連した講義が行われ、「新しい学校」の教育活動として評価した貴重な研究です。そうした研究が、実は大原社研の大阪労働学校の森戸自身の教育実践に裏付けられたものだとすれば、ここにモリスから堺、山川、そして労農派社会主義の大阪労働学校への流れが確認できると思います。そしてまた、東北・花巻の賢治の羅須地人協会も、モリスのハマスミス社会主義協会の職人労働学校に連動して、大阪労働者学校とともに労農派の「新しい学校」としての農民芸術学校の貴重な実験だったと言えそうです。
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by kenjitomorris | 2013-08-08 11:04
賢治の羅須地人協会が目指したもの(続)
 賢治が花巻農学校を退職し、自由学校の私塾として羅須地人協会を始めるについて、岩手国民高等学校の教師を兼務した経験が大きかったように思われます。その辺の事情を、佐藤 成編著『宮沢賢治 地人への道』から辿ってみました。デンマークの国民高等学校(フォルケ・ホイスコーレ)の理想と、岩手国民高等学校の現実のギャップを賢治は痛感し、自ら理想とした「新しい学校」をめざし羅須地人協会を設立した。その点は、国民高等学校の生徒だった平 来作、菊池信一などが、こぞって羅須地人協会に参加したことからも推察できます。そして、伊藤清一が丹念にノートを取った「農民芸術論」、その理想を「教育基本法」とする「新しい学校」こそ、羅須地人協会だったのです。
 伊藤清一のノートでも、詳細に書き取られていた「農民芸術論」ですが、すでに紹介したウィリアム・モリスの芸術思想、アーツ&クラフツの思想と運動が大きな影響を与えている。デンマークのフォルケ・ホイスコーレから農村問題、農民教育の思想が継承されたとすれば、モリスのアーツ&クラフツ運動からは、農民芸術学校として、芸術思想の継承があった。それについては、モリスからの影響も大きかったはずです。上記『宮沢賢治 地人への道』では、その点には立ち入っておりません。ただ、その中で「羅須終焉の日」の直前の記述ですが、こんな簡単な指摘がありました。紹介します。

 「また賢治は羅須地人協会を学校と考えていた。それは集会案内の中に<今年は設備が何もなくて、学校らしいことはできません。>と語り、妹たちとその子供をつれて八戸へ旅行したとき宿泊先、陸奥館の宿帳の職業欄に<教師>と記入していることからもうなずけよう。
 賢治は劇のメモの中で<借財により労農芸術学校を建てんといふ>と言い、花巻温泉社長の金田一氏より五百円かりようと考え、当時出入りした青年たちにラスキンの話をしている。(ラスキンが関与した『労働者学校』はフレデリック・モーリスが中心になって1854年ロンドンに創設したもので、ラス金も求められて美術教育の講義を担当した。)
 青年の中の一人伊藤克己は<農民芸術学校と自称していた>といっている。その言葉からも十分納得できるというものである。」

 その上で『宮沢賢治 地人への道』では、「農民芸術概論綱要」の結論の部分が引用されています。賢治が、羅須地人協会を農民芸術学校として設立し、その農民の面ではデンマークのフォルケ・ホイシコーレを参考にし、芸術面ではラスキン、そしてモリスのアーツ&クラフツの運動実践を継承しようとしていたと思います。実際、19世紀の後半に向けて、北欧ではデンマークのフォルケ・ホイスコーレなど、そしてイギリスでもロンドンをはじめ、各地に労働者学校が沢山できていた。すでにふれたモリスのハマスミスの自宅、ケルムスコット・ハウスに設けられた「ハマスミス社会主義協会」も、政治運動の組織というよりも、むしろモリスによる職人労働者のための「新しい学校」だったと思います。
 そこで、ラスキンが関与し協力したとされるロンドンの「労働者大学」ですが、フレデリック・モーリスではなく、彼の父親ジョン・フレデリック・モーリスが創立しました。父・モーリスは、英国教会の聖職者、神学者で、1840年にはロンドン大学のキングス・カレッジの英文学、後に神学の教授に就任しました。イギリスにおける代表的なキリスト教社会主義者であり、ロバート・オーエンやサン・シモンの影響を強く受けています。そうした立場から1854年、ロンドンに「労働者大学」を開校し、労働者教育に従事しました。その「新しい学校」を息子のC・Fモーリスが協力、継承して発展させたわけです。ラスキンも講師を務めるなど、日本でも労働者教育の「新しい学校」として有名で、賢治などが話題にしていたのでしょう。

 そこでモリスとの関係ですが、社会主義運動の中で息子のモーリスとモリスは直接の交流がありました。1883年6月12日にロンドンの郊外ハムステッドでのモリスの有名な講演「芸術と民衆―資本主義の蛮行に対する社会主義者の抵抗:労働者階級に対しての演説」、内容は労働者が芸術や歴史を学ぶ意義、とくに小芸術の装飾芸術と大芸術の分化に対し、労働者が希望をもって芸術家として働く、労働者は不満や希望を率直に表明し、社会主義について学ぶ、そして組織的に行動することを訴えましたが、それをモーリスが聴いた。この講演に関して、モリスはさらにモーリスに手紙で「芸術が体制により手錠をかけられ、その体制が続く限り、芸術は文明から逸脱し死に至るという結論に、私自身が徐々に到達しています」と訴えています。
 このようにラスキンやモリスの職人・労働者教育に関して、賢治が強い関心を寄せていた。そして、「地人芸術論」のタイトルで、羅須地人協会でも農民芸術概論綱要を講義し、モリスの芸術論を紹介し、「労働をもて、あの灰色の労働を燃せ」と訴えた訳です。こうした「新しい学校」としての羅須地人協会の活動は、デンマークやイギリス各地の教育運動から影響を受けただけではない。1920年代には日本でも、セツルメントや生活協同組合などと結びつきなら、各地で労働学校など「新しい学校」の運動が拡大していました。そうした運動を、宮沢賢治が花巻の地で受け止めようとしていた、それが羅須地人協会の活動だったと思われます。

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by kenjitomorris | 2013-08-04 10:46



賢治とモリスの館 - 最新情報
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