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上野・国立西洋美術館のF・ブラングィン展
 NHK教育テレビの「日曜美術館」は「お気に入り」番組で、ほとんど毎週見ることにしている。そこで放送された、東京・上野の国立西洋美術館創立50周年記念の企画展「フランク・ブラングィン」展、ようやく見ることができました。3時間以上、たっぷり時間を掛けて鑑賞しました。やはり駆け足の見物はだめ、ゆっくり見ないといけませんね。今回は、ウイークデーで、午前中から、観客の少ない時間を狙いました。
 予め「日曜美術館」を見て、1)ブラングィンが、W・モリスの工房で働き、アーツ&クラフツの継承者であること。もう一つ、2)漱石が『それから』の中でブラングィンの作品を取上げて評価していた事、その2点を今度の50周年の企画展で作品を直接見て、自分なりに掘り下げたかった。そのために今回は特別に分厚く、立派な「カタログ」も購入、今後の勉強のため資料収集して来ました。(写真アップ)
 まず、1)についてですが、ブラングィンが働いたモリスの工房ですが、ロンドンのハンマースミスかと思ったら、小生の勘違いでクイーンズ・スクエアの工房でした。そこで、タペストリーのデザイン、デザイン原画から制作したようです。モリスは油絵など絵画は殆どない、しかしテキスタイルを中心に壁紙などもデザインした。ブラングィンの絵画は壁画など、壁面装飾として絵画を書いています。タペストリーや壁紙とともに、絵画も壁面装飾として生活の中に入る、そんな気が強くしました。考えてみれば、原始時代の穴倉生活にも壁画があり、絵画の原点ですかね?こんな見方で良いのか?これから考えたい点です。
 小生にとって、モリスの工房でブラングィンがクラフツマンとして働いた、それがすこぶる大事です。しかし、働いた場所とともに、さらにもう一つ、モリスの工房で働いた時期が大事です。カタログの年表では、1882-84年です。モリスは83年に母校のオックスフォード大で講演し、自らマルクスを学びラスキンを継承して、「社会主義者」の宣言をしました。さらに、社会民主同盟に参加したのも、この時です。その後、同志のB・Baxと共同で『社会主義』の論文を連載、さらに共著まで出版しているのです。モリスが社会主義者に解脱した、そのときにブラングィンは、モリスの工房で働き、アーツ&クラフツ運動を継承したのです。ブラングィンのモリス入門です。
 モリスは、83年のオックスフォードの講演で、彼の芸術のキーワードとも言える”Art is a man's expression of his joy in labor."と訴えました。芸術と労働との結びつきです。宮沢賢治は、そのモリスのキーワードを、詩のスタイルで「芸術をもて、あの灰色の労働を燃せ」と表現、有名な『農民芸術概論綱要』で花巻農学校の生徒や「羅須地人協会」の農民達に講義したのです。賢治は農民芸術論として、ブラングィンは沢山の壁面装飾画として、83年のモリスのアーツ&クラフツの芸術思想を継承したのです。小生にとっては大変大きな発見で、胸の高鳴りを覚えて会場を歩きました。
 こうしたブラングィンの働く人間の労働の芸術表現、それに松方幸次郎が魅了され、ロンドン留学の夏目漱石も惹きつけられた。漱石とモリスの接点は、このブログで何回か書いてきましたが、漱石はモリスと共に、それを継承しているアーツ&クラフツ運動のブラングィンに注目したのです。2)の論点ですが、漱石はロンドン留学中にモリスを読み、その頃ブラングィンは、モリスの仕事場があり、テームズ河の船着場ハマースミスに住んで、造船やそこに働く労働者の絵を精力的に描いていた。モリス―漱石―ブラングィン、3人の関係などを一歩一歩確かめながら、足を運びました。松方コレクション、そして国立西洋美術館の誕生、その経緯を学ぶことも出来たしだいです。
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by kenjitomorris | 2010-05-27 19:31
「漱石発狂す」―夏目漱石のロンドン生活
 4回ほど、夏目漱石のロンドン生活に関連し、漱石とモリスの接点を探ってきました。とくに前回のブログの最後に、漱石が<モリスのグリーン・ダイニングルームで食事を楽しんでいた>と書き込みました。そのためでしょう、早速次のようなコメントを頂きました。
 <通説では、その頃の漱石は神経衰弱になり、文部省へのレポートも提出せず、翌年になると「漱石発狂す」となり、1902年末に帰国命令が出ます>、確かに通説では、漱石のロンドン生活は神経衰弱で暗いものであり、とてもモリスを読んだり、V&Aで食事を楽しんだり、そんな状態ではなかったのではないか?という疑問が出ると思います。とくに男性の単身留学、しかも文部省派遣の官費留学、それも英語の先生のロンドン留学、2重3重のストレスでウツ状態になり易いと思います。小生もロンドン留学の経験があるし、身近に強度のウツで自殺の恐れのあった国立大の英語の先生のケースを知っております。だからこそ、「漱石の神経衰弱」という通説が生まれ、その説が今も生きているのでしょう。
 しかし、この通説には誇張があるし、漱石の留守中の東京で作り上げられた話で、それが通説になってしまったように思います。この際、漱石先生の名誉のためにも、また国際都市ロンドンのためにも、日本に今も残る「漱石の神経衰弱」の通説を、批判的に検討しておきたいたいと思います。
  漱石のロンドン生活は、その時点の日記、書簡、ノートのメモ、などから推測できますが、これらから神経衰弱、とくに「漱石発狂す」といった診断は、医者ではありませんので不可能です。ただ、それらを読んでみて、とくに神経がおかしくなっているかどうか、素人目に判る範囲でしか言えませんが、そんなにひどい神経衰弱には見えません。もちろん、ロンドンでの留学生活ですから、言葉の問題をはじめ、日本の通常の生活よりストレスは大きかったでしょう。日記など、英語がたくさん出てきますので、多少の苦労はあったようですが、英語でそんなに苦労したようには見えません。
 人種的な差別や偏見は、イギリスの階級社会には強いようですが、漱石も日記には「男女二人連ノ一人ガ吾々ヲ日本人ト云ヒ一人ガ支那人ト云ッタ」などの記述があります。中国人、べトナム人、フィリッピン人などと差別的に呼ばれたり、扱われたりするのですが、その点では漱石は「日本人ヲ観テ支那人ト云ハレルト嫌ガルハ如何、支那人ハ日本人ヨリモ遥カニ名誉アル国民ナリ、只不幸ニシテ目下不振ノ有様ニ沈倫セルナリ、心アル人ハ日本人ト呼バルルヨリモ支那人ト云ハルルヲ名誉トスベキナリ、仮令然ラザルニモセヨ日本ハ今迄ドレ程支那ノ厄介ニナリシカ、少シハ考へテ見ルガヨカラウ、」などと書いています。
 漱石の場合、ストレスが溜るどころか、すでに紹介した「戦争で日本負けよと夏目云ひ」など、マルクスやレーニンなど多くの亡命者が集まる国際都市のロンドンで、自由かつ大胆な日本と日本人の批判をしています。このような言動は、むしろ留学によるストレス解消に役立っていたかもしれません。ただ、この種の過激な日本人批判は、危険な反日思想として日本に伝えられ、「漱石発狂す」となり、早く日本に帰国させるべきだ、となったかも知れませんね。漱石に対して帰国命令が出たのは事実です。ただ、その実際の処理については、戦前の岩波書店の『漱石全集』の月報に、藤代素人が「夏目君の片鱗」として、次のように書いています。少し詳細に引用しておきましょう。
 「我々の留学は満二年の期限であった。其期の満つる一ヶ月程前に<夏目ヲ保護シテ帰朝セラルベシ>と云う電命が僕に伝へられた。これは君の精神に異状があると云うことが大袈裟に当局者の耳に響いた為めである。それでなくても僕は無論同船して帰朝する積りで、其前に君と打合せを仕て置いた。所が倫敦へ着くなり郵船会社の支店へ行くと事務員が<夏目さんは一度乗船を申し込んで置きながらお断りになりました>とさも不平らしく訴える。<もし同船して帰ると云たら船室の都合は付きますか」と聞いたら、<それはどうにかなりましょう。>と云う返答だ。そこで夏目君に端書を出したら翌朝僕の下宿へ来て呉れた。君より前に来て居たO君は、例の電報を取次いだ関係で、是非一所に連れて帰れ、荷物の始末は跡でどうにでも付ける。ああいふ電報のあった以上若しもの事があったら君は申訳はあるまいと熱心に同行を主張する。」
 藤代は、漱石の下宿に泊まって同行を説得したが、漱石は書籍を沢山買い込み、其の荷造りのため
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に同行できないことになった。「成る程君の部屋には留学生としてはよくもこんなに買集めたと思う程書籍が多い。これを見捨てて他人に後始末を任せると云うことは僕にしても出来相もない。それに今日一日見た様子では別段心配する程の事もないらしい。」という事で、藤代は漱石の説得を断念、漱石は藤代の友情と面倒をかけたお礼に、「其翌日君にケンシントン博物館と図書館を案内して貰ひ、図書館のグリル・ルームで一片の焼肉でエールを飲んだ」となった。
 この漱石の神経衰弱事件がなければ、ロンドン留学の最後に、モリスのグリーン・ダイニングルームのあるV&Aのレストランで、エールで乾杯した話は生まれなかったと思います。事件の副産物ですね。
V&Aのグリルルームの入り口の写真です。
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by kenjitomorris | 2010-05-09 20:47
その4:漱石とモリスの接点を探る
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 漱石が、ロンドン留学から帰国の前に、藤代素人とV&AのThe Refreshment Roomを訪れたことを書きましたが、それ以前にも、漱石はV&Aに何度も足を運んでいます。
 最初は、ロンドンに着いたのが1900年10月28日ですが、British Museumなどに続いて、11月11日の日記に「Kensington Museumヲ見ル Victoria and Albert Museumヲ見ル」と書いています。V&Aに名称が変更されて間もないので、KensingtonがKenshingtonと誤記されていたようですが、2つ名前が並んでいるのも面白い。従来からのKensingtonが、まだポピュラーだったのでしょう。漱石もKensingtonを使っています。
 その後、1901年になり、7月9日の日記には、書店街の「HolbornニテSwinburne及Morrisヲ買フ」とあります。おそらく漱石の蔵書に収められた、モリスの『地上楽園』だと推測されます。ここでモリスとV&Aとが結びつくことになります。漱石は、モリスの本を、たんに買っただけでなく、すでにロンドンで一生懸命読んでいたようです。9月7日、さらに21日の日記には、こんな記述があるのです。
 「モリスヲ連レテHyde Park辺ヲ散歩スNatural History Museum二至ル」
 「Morrisヲ連レテ散歩ス」
 ここで散歩のお供をするモリスが、いくら『我輩は猫である』の漱石でも、猫や犬の名前ではないでしょう。日記には、犬や猫と散歩した記述はないし、特にMorrisと書いているので、恐らく漱石は散歩するのに、モリスの『地上楽園』を持って、ハイドパークのベンチで読んでいたのではないか、と想像します。モリスを読みながら、散歩の足はV&Aに向く。V&Aは、Natural History Museumのすぐ隣ですから、漱石は「モリスヲ連レテ」V&Aのモリス達の「アーツ&クラフツ」を学んだのではないでしょうか?
 漱石は、藤代素人だけではない。仙台の旧制二高を辞職して、私費でロンドンにやってきた土井晩翠も、V&Aに案内しています。10月13日の日記には、「土井氏トKensington Museum二至ル」と書いています。よほど漱石は、V&Aが気に入っていたし、お客を案内してモリスなどを紹介し、説明していたに違いありません。そして、The Refreshment Roomにも足を運んで、モリスのグリーン・ダイニングルームで食事を楽しんでいた筈です。これが、「夏目漱石 in London」ですね。
 V&Aの玄関の写真を添えます。
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by kenjitomorris | 2010-05-08 09:19
続々:漱石とモリスの接点を探る
 昨夜、アップする予定でしたが、エラーのため書き直します。

 漱石がロンドンに留学の最後に、同じ文部省からベルリンに留学していた藤代素人がロンドンに立ち寄り、漱石が素人を案内したのがV&Aであり、「一片の焼肉でエールをのんだ」のが、モリスの例のグリーン・ダイニングルームではなかったか?前回の書き込みの後、とても気にかかっていました。小生の推測について、この3月末までロンドン、しかもV&Aで研究されていた仙台の女子大のY先生から、じつに適切なコメントをメールで寄せられました。以下、お許しを得たので、引用させて頂きます。
 「もちろんこの頃は、すでに名称が<ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム>に変わっていますが、まだ変わって間もない頃ですし、改変前の名称や地名との関連もあり<ケンジントン博物館>と呼んでいたと想像します。周辺には独立した図書館もないので、おそらく<ケンジントン博物館>内にある<図書館>であったでしょうし、V&Aの図書館(現National Art Library)は、グリル・ルームととても近い位置関係にありますから<図書館のグリル・ルーム>となったのかもしれません。
 ただ、この時点でV&A内で食事のできるところは、3部屋あり、先生もご存知のように、3部屋はつながっており、中央に”The Refreshment Room"があり、その西隣がモリスの”Green Dining Room"、東隣が”The Grill Room"です。”The Grill Room"は先生も行かれたときごらんになったとは思いますが、昔とった写真を添付します。写真の”Stove"では、当時肉を焼いていたようです(”Stove"の横にコックが立っている1880年ごろの銅版画ものこっています。)ですから<図書館のグリル・ルーム>とはこれらの写真の”The Grill Room ”の可能性があります。しかし、現在の利用者がそうであるように、どの部屋で食べようとも、この3部屋の名前を使い分けていないことが多いようなので、実際は、”The Green Dining Room”あるいは”The Refreshment Room”食べたとしても”The Grill Room”ということになった可能性もあります。」(以下、添付写真を含め略)
 という訳で、小生の推測では、漱石がV&Aとその図書館を案内し、「3部屋からなる世界で初のミュージアムレストラン」で素人と食事した、ここまではY先生のお墨付きを頂いたようです。ただ、小生はモリスのグリーン・ダイニングルームばかり念頭にあり、3部屋の詰めが甘かったようです。Y先生のご指摘のとおり、肉好きの漱石が焼肉を食べたとなれば、ストーヴのあるグリル・ルームでしょう。ただ、ご説明頂いているとおり、3部屋は繋がっていて、モリスのダイニングルームを見ながら、彼の「小芸術」を鑑賞しつつ、漱石と素人の二人が、無事留学を終えたことを祝してエールで乾杯した、そんな光景が連想されます。
 日本人にとって、モリスとV&A,およびグリーン・ダイニングルームが、とても身近に感じてきます。これをご縁に、今後Y先生から、いろいろご教示を得たいと思います。
 なお、07年6月にV&Aのグリーン・ダイニングルームで食事したときの写真、アップします。食事の味は、余り‐‐-‐。
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by kenjitomorris | 2010-05-03 16:04



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