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エンゲルス・レーニンの「科学的社会主義」
<情報コーナー>
 館のカタクリの群生、そろそろピークです。今年は昨年3月の急激な寒さによる影響で、ヒメ岐阜蝶の蛹が死滅、全国的に急減しているそうで、我が館でもほとんど姿が見えません。異常気象はヒメ岐阜蝶にまで及んでいるといえますが、来年は自然の復元力で回復するとのことです。
 カタクリの花は、昨年と違い見事に咲き揃い、ピンクの絨毯を森に敷き詰めたようです。沢山の訪問客の目を愉しませてくれています。ピンクやしお、山野草の数々、山桜もそろそろです。本格的な春の訪れです。

 賢治&モリス「館だより」創刊第一号、お送りしましたが、届いたでしょうか?転居などで大分戻ってきております。また、ご来訪の節、ご記帳頂かなかった方、お送りしたいのでご住所、ご連絡下さい。出来れば、メールにしたいと思っておりますので、アドレスをお知らせ下さい。夏には第二号を準備します。宜しくお願いします。

<研究ノート>
 社会主義のルーツまで遡ったモリスの社会主義論だが、第15章に到って「科学的社会主義―k・マルクス」を取り上げる。彼はマルクスの理論を、「完全な社会主義の理論、いわゆる<科学的社会主義>と呼ばれるが、その完全な発展に到るものに関して取り上げる。この理論の偉大な典型的人物、生産の資本家的システムの最大の批判の著者、それは故カール・マルクス博士である」と冒頭で最大級の賛辞を送っている。
 モリスは、マルクスと彼の『資本論』について、このような賛辞を捧げている以上、自ら社会主義としてはマルクス主義であることを自任したことになる。また、マルクスの娘エレノア達とともに、社会民主同盟などでも、マルクス派として運動に参加していたのだ。にもかかわらず、エンゲルスなどからは「科学的社会主義」としてではなく、「空想的社会主義」として扱われたのであるが、それはモリスのたんに「指導者」としての資質に原因しただけなのであろうか?その点をまず問題にしようと思う。
 モリスは、マルクスの生い立ちから独、仏での活動、そして1847年のエンゲルスとの出会い、49年のロンドンへの亡命の経緯をごく簡単に紹介する。そして、「マルクス・イン・ロンドン」の主要な活動が「国際労働者協会」の組織化、および『資本論』の執筆であって、『経済学批判』も「偉大な著作『資本論』への基礎となった」点で評価し、まず差し当たり『批判』を使いながら、『資本論』の商品と貨幣の説明の入っている。
 ここで、以上のようなモリスによるマルクス主義、科学的社会主義への入り方、紹介の方法について、少し立ち入ってみたい。
 マルクス主義の紹介・解説としては、エンゲルスの『空想から科学へ』(1883)や、レーニンの解説「カール・マルクス」(1918)など、いわゆる「マルクス主義の3つの源泉と3つの構成部分」が基本的なものとされてきた。前者は、1)社会主義、2)唯物論、3)資本主義分析の3つの分野に分けて解説され、「唯物史観は剰余価値論によって社会主義は科学となった」とされた。また後者では、3つの構成部分は、1)ドイツ哲学、2)イギリス経済学、3)フランス社会主義が3つ源泉とされたのである。こうした形で、科学的社会主義が定義され、マルクス・レーニン主義がドグマ化されたのだ。
エンゲルスの『空想から科学へ』の所説については、すでに検討したので立ち入らないが、まず仏の社会主義の思想を中心に、空想的社会主義者としてサン・シモン、フーリエ、オーウェンの三人をあげる。「この三人に共通な点は、彼らがいずれも当時歴史的に生み出されていたプロレタリアートの利益の代表者としてではなく、啓蒙主義者と同様に、---ただちに全人類を解放しようとした。」しかし、資本家的生産方法の発展は、ブルジョワジーとプロレタリアートの対立を激化させたのであり、もっぱら階級対立の視点から、三人を批判する。そして「社会主義をして科学たらしめるには、それの立つべき現実的基礎が、まずもって作られねばならない」と述べる。プロレタリアート・階級解放の視点の強調である。
 次いで独のヘーゲル弁証法の意義を強調する。「このドイツの新しい哲学は、ヘーゲルの体系において完成した。この体系により、自然と歴史と精神の全世界が一個の過程として説明され、それは不断の運動、変化、変形、および発展の中にあるものとして説明された。」しかし、彼の弁証法は「絶対精神」の自己運動であり、観念論だった。この観念弁証法を近代唯物論の発展を前提にして、唯物論的に転倒する。唯物弁証法であり、「その歴史的適用によって、いまや観念論は、その最後の隠れ家たる歴史観なら解放された、唯物史観がここに生まれた。」つまり、唯物史観によって、社会主義の思想が階級闘争に基礎付けられることになる。「従来の一切の歴史は、原始時代を除けば、階級闘争の歴史であった。」
 この唯物史観を、イギリス古典派経済学の批判的継承により、価値論・剰余価値論によって基礎付ける。「唯物史観と剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、じつにわれわれがマルクスに負うところである。社会主義はこれによって一つの科学となった。」つまり、初期の『共産党宣言』から『経済学批判』までの「イデオロギー的仮説」だった唯物史観、それを剰余価値論で基礎づけたもの、それがエンゲルス流の「科学的社会主義」の内容だし、『空想から科学へ』の発展だったのだ。
 レーニンの見解も、ほぼエンゲルスのそれと同一である。1818年の「カール・マルクス」は辞典の解説項目だが、それに先立ち1813年に上記「マルクス主義の三つの源泉と三つの構成部分」を雑誌論文として発表し、「人類が19世紀にドイツ哲学、イギリス経済学、フランス社会主義という形でつくりだした最良のものの正統の継承である」と述べる。エンゲルスが、まずフランス社会主義として「空想的社会主義」を取り上げたのと、順序だけが逆になっている。しかし、レーニンはまず、エンゲルスの著作『ルードウィヒ・フォイエルバッハ』と『反デューリング論』をあげ、「これらの著作は―『共産党宣言』と同じく―自覚した労働者のだれもがかならず座右におくべき書物である」と強く推奨する。
 このようにレーニンのマルクス主義の解説は、エンゲルスのそれだし、彼の『反デューリング論』であり、要するに『空想から科学へ』なのだ。だから、ヘーゲル弁証法のフォイエルバッハの唯物論への発展、その上で「マルクスは、哲学的唯物論をふかめ発展させて、それを徹底させ、それの自然認識を人間社会の認識へとおしひろげた。科学思想の最大の成果は、マルクスの唯物史観であった。」ここで、レーニンもエンゲルスと共に、弁証法の自然弁証法への拡大、歴史と社会の発展の認識に拡大しつつ、「唯物史観」を枠組みに据えたのである。
 この唯物史観の枠組みの内部で、生産力とせ産関係の発展、下部構造による上部構造の規制、そして階級闘争史観が前提される。したがって、『資本論』の価値論・剰余価値論、さらに「近代社会すなわち資本主義社会の経済的構造の研究」も、唯物史観の枠組みの内部に位置づけられることになる。「剰余価値学説は、マルクスの経済理論の礎石である」とレーニンはいうが、その場合、唯物史観を『資本論』の科学により基礎付けるのではない。方法は逆なのだ。『資本論』の科学が、唯物史観の枠組みに組み込まれているのだ。
 したがってレーニンも、エンゲルスと同様、「科学的社会者主義」の内容は、たんに唯物史観の剰余価値論による裏づけに過ぎなくなるし、それを前提にした空想的社会主義への批判になる。「最初の社会主義は空想的社会主義であった。---それは、資本主義の下での賃金奴隷制の本質を説明することも、資本主義の発展法則を発見することもできず、また新しい社会の創造者となる能力を備えた社会的勢力を見出すこともできなかった。」しかし、レーニンの主張も唯物史観の階級闘争の歴史が一面的に強調されつつ、生産力の発展による「労働の社会化」、そして「資本家のカルテル、シンジケートおよびトラストの成長にも、---社会主義が必ずくるということの、主要な物質的基礎」として強調される。「労働の社会化」に基づいた「所有の社会化」=国有化、ここから「プロレタリアートによる政治権力の獲得(「プロレタリアートの独裁」)を目指す政治闘争」による「国家社会主義」が提起されたのだ。
 要するにエンゲルスからレーニンへの「科学的社会主義」の内容は、単にイデオロギー的仮説に過ぎなかった唯物史観を、古典派経済学の労働価値説に基づく剰余価値論で裏づけをあたえたものに過ぎなかったのだ。それが、さらにレーニンによって、「プロレタリアートの独裁」からソ連型国家社会主義に転化・発展をみたと言えるだろう。それはマルクス・レーニン主義と呼ぶより、すぐれてエンゲルス・レーニン主義であり、唯物史観プラス剰余価値論の社会主義だったと言えるのではないか?
 しかし、モリスのマルクス主義、科学的社会主義の受け止め方は、エンゲルス・レーニン主義とはちがう。
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by kenjitomorris | 2008-04-18 16:24
モリスと「マルクス・イン・ロンドン」
<情報コーナー>
 1)いよいよ今年もカタクリの群生が開花しました。仙台の桜の開花宣言が例年より早かったのに合わせたかのように、カタクリも開花宣言です。10日過ぎが見頃でしょう。お出かけ下さい。
 カタクリの開花は、ほぼ桜の開花と同じですが、「館」のカタクリは、とくに長い間咲きます。「館」の建物の向かって左手から、背後の国有林、さらに右手に移ります。雪や霜が無ければ5月の大型連休まで咲き続けると思います。
2)「賢治とモリスの館だより」創刊号を4月1日に、約700部ほど発送しました。B4版4ページです。「お知らせ」「ランチ・メニュー」「新刊案内」「四季のガーデン(春)」、それに来館者の交流コーナーとして、「交流の広場」の欄を設けました。是非ご協力下さい。
 発送は、ご来館頂いた方々の名簿によりましたが、名簿にご記入頂かなかった方、また宛名不明などで返送されたものもあります。これからメールマガジンのようにしたいと思いますので、是非アドレスなどお寄せ下さい。追加発送します。
<研究ノート>
 マルクスからモリスへの研究を教導して頂いたのは、1982年当時オックスフォードのウースター・カレッジ学長だったA・ブリッグス教授だが、教授の著作『マルクス・イン・ロンドン』の中で、2人についてこんな風にのべている。
 マルクスには3人の娘がいた。長女のジェニーは、マルクスが亡くなる前に死んだので、2人の娘が残された。次女ラウラは、姉の夫シャルル・ロンゲの医学校の同級生だったポール・ラファルグと結婚し、パリで生活していた。ラファルグは医者を開業したが、社会主義の運動にも熱心だった。しかし、最後は夫婦とも自殺心中した。
 「マルクスが可愛がっていた末娘エリナは、ラウラに先立って1898年に亡くなった。‐‐‐エリナは演劇に興味を持ち、女優となったが、仕事を通じて社会主義者でもあり科学者でもあったエドワード・エーヴリングと知り合った。彼女はエーヴリングと、1898年の死まで一緒に暮らしたが、2人の間は決して幸せなものではなかった。エリナは、エーヴリングが他の女性と密かに結婚していたことを知り愕然とする。その女性も女優で、エーヴリングは偽名で結婚していたのである。彼女はついに自殺を決意する。‐‐-エリナには子供がなかった。彼女は生前、ロンドンのマルクス主義者の間では目立った存在だった。当初、社会民主連盟に、その後、ウイリアム・モリスによる社会主義連盟の会員として活躍していたのである。」
 マルクスの思想や理論にモリスが興味を持ち、『資本論』等を読んだが、直接的な二人の接触はほとんど無かった。直接には、マルクスの末娘エリナ、および彼女の「情夫」とも言えるエーヴリングとの関係だった。70年代から80年代を迎え、イギリスを始め資本主義の新しい発展に伴う矛盾や労働運動の高まりとともに、社会主義の思想運動にも、新たな論争や運動の混乱が生じていた。モリスのマルクス主義への関心も高まったけれども、同時にまた運動の混乱の渦中に、彼もエリナとともに巻き込まれていった。
 上記、社会民主連盟とその分裂による社会主義連盟の結成に、モリスはエリナ、エーヴリングと行動を共にした。マルクスは1883年に死んだが、「マルクスより12年長く生きたエンゲルスは、こうした世の移り変わりを強い関心を抱いて見つめていた。しかし彼は、マルクスの遺稿を整理し、『資本論』を完成させる仕事に忙殺されていた。また彼は、遠隔の地からではあったが、ドイツの社会民主主義運動を指導していた。---エンゲルスは、イギリスも、ドイツ社会民主党に匹敵する強力な政党を持つべきだと考えていた。---しかしエンゲルスは、社会民主連盟が、いわゆる”シルクハットの社会主義者”ハインドマンに率いられていると言う理由で、支持をかなり留保した。もちろんエンゲルスは、ハインドマンがマルクス主義の多くをとり入れていること、また、後に分裂することになる社会主義連盟の中の無政府主義一派に対しては、エンゲルス同様警戒心を抱いていたことは知っていた。モリスの社会主義は独自の要素を含めて、マルクスの社会主義と多くの点で一致し、よく似た思考方法と感性を示すものだったが、モリスの指導者としての性格がエンゲルスの心をとらえなかった。」(131-2頁)
 ここでA・ブリッグス教授は、エンゲルスがモリスやエリナ・マルクスから、距離を置いていたことを指摘している。そして、その理由は、「モリスの指導者としての性格がエンゲルスの心をとらえなかった」からだと、述べている。しかし、たんに「指導者としての性格」の不足に止まるものか?マルクスは亡命して30年以上もロンドン市民として生活した。娘達はいずれも市民権を得て、特にエリナはモリスと行動をともにした。マルクス一家はロンドン市民として定住し、生活者だったのだ。
 それに引き換えエンゲルスは、マンチェスターで父親の工場を経営しながら、ロンドンやドイツを動き回っていた。住所が不定と言うか、定住性不足の点で、ロンドン市民だったマルクス一家との違いは大きい。生活者として見た時、マルクスからエンゲルスへと、モリスによるマルクスの受容とでは、根本的な違いがあったのでは無いか?続いて、ドイツ社会民主主義から、ロシアの社会主義に関連して、教授はさらに次のように含みに満ちた説明をしている。
 「1883年には、もう一人のロシア人テロリスト、ステップニクがやって来ている。---ステップニの哲学は、モリスに影響をあたえていたマルクスの哲学とはまったく異なっていた。しかし彼は、社会主義革命がロシアで起こる可能性があると予言した。」(138-9頁)この後、レーニンの ロンドンでの行動を紹介しているが、ここで「モリスに影響をあたえていたマルクスの哲学とは全く異なっていた」、そのロシア社会主義の革命思想とは何か?逆に言えば、ロシア革命の思想とは全く異なるマルクス―モリスの社会主義の思想とは何か?モリス研究から「マルクス・イン・ロンドン」を書いたA・ブリッグス教授は、マルクスの「科学的社会主義」に、マルクス・レーニン主義とは全く異質なマルクス・モリスの社会主義の思想を読み取ろうとしているのではないか?
 教授は、最後に旧ソ連の社会主義について触れ、「マルクス・イン・ロンドン」の位置づけをこころみている。旧ソ連崩壊前、1982年の時点での示唆に富んだ提起だと思う。
 「いまやマルクスの思想は、彼を受け入れたロンドンをはるかに超えて拡がり、現在、全世界の人口の三分の一の人々の指導理念となっている。ある国では、マルクス主義が現世における宗教と化し、革命というよりも国家権力の基礎とまでなっている。なぜなら、マルクスが予言したようなような、国家の死滅はいまだに実現していないからである。
 彼の思想は、現在、彼が生きていた当時よりもはるかに論議の的となっている。その上、現在の”マルクス主義者”はまことに多種多様である。マルクスが生きていたとしても、逐一それらを識別することは到底不可能だろう。」(140-1頁)
 1990年代初頭、国家社会主義とも言える旧ソ連は崩壊し、マルクス・レーニン主義の教条はすでに破綻した。他方、国家福祉主義のイデオロギー的基礎とも言える「社会民主主義」の正統性も動揺している。マルクス・モリスのユートピア的コミュニティ社会主義を改めて問い直す必要があるだろう。
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by kenjitomorris | 2008-04-08 12:26



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