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賢治詩の動物世界
<情報コーナー>
 1)岩手大学に「宮沢賢治センター」が平成18年6月1日にオープンし、その際入会しました。ほぼ毎月、月例研究会が開かれています。しかし、盛岡なので欠席がちですが、今回3月25日に話題「賢治詩の動物世界」に惹かれて久しぶりに出席しました。内容は<研究ノート>で取り上げます。
 2)今年は春が早く、作並も雪が消え、群生のカタクリの花、もう蕾を膨らまし、開花を待つばかりです。31日、仙台は春の雪に見舞われましたが、余り冷え込まなければ、4月10日頃にはカタクリ美しく咲き揃いそうです。お出かけ下さい。
 3)W・モリスの代表的なタペストリーのデザイン「キツツキ」1885年を飾りました。1年半前に注文し、ようやく出来上がりました。シルクの織りですが、中国でナンバー1と言われる河南省の鎮平工房で制作された美しいタペストリーです。是非ご覧下さい。
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<研究ノート> 
賢治もモリスも、動物や植物の自然をモチーフにしたアーチストである。モリスはタペストリーでも、キツツキとアーカンサスを素材にしたデザインだ。代表作「イチゴ泥棒」では、イチゴを咥えた「つぐみ」のシンメトリーがデザインされている。カーテン地、壁紙、それにタペストリーにも利用されている代表的なデザインだ。賢治の鳥の研究家である赤田秀子さんは、「モリスも賢治も、それぞれの環境の中の自然の動植物から新たな世界を構築して、われわれを魅了するのである。それを享受できることは、経済でまかなうことのできない精神の贅沢さでもある。」(「自然の中から新しい物語を見つけた人―モリスの鳥と賢治の鳥と―」『賢治とモリスの環境芸術』の栞より)と、的確に2人の天才について述べておられる。 
 岩手大学の「宮沢賢治センター」での研究会、同大の名誉教授・吉田勝一さんの報告で、ご専門の生物学的視点からの「賢治詩の動物世界」のお話だった。糸ミミズなどゼンケイ動物の話など、賢治の口語詩に登場する動物の分類を詳細に話された。口語詩では頻度のトップは馬、ついで鳥、犬、ヒバリ、全童話では、馬、鳥、魚、鼠、兎と続く。賢治作品では、詩も童話も馬、そして鳥である。その点で、鳥は賢治とモリスに共通の環境芸術のモチーフだった、と言える。
 登場頻度からすると、鹿は多くない。実は、今度の研究会への個人的な期待では、賢治の童話「鹿踊りのはじまり」を朗読するのに、鹿の動物生態の特徴を少しでも知りたくて、わざわざ盛岡まで足を運んだのだ。鹿の好奇心と警戒心の矛盾など、動物生態として、どう考えたらいいか、そこが知りたかった。この期待は、残念ながら充たされなかったが、それは当方の勝手な、一方的な要求であり、仕方のないことだと思う。
 しかし、鹿の話も出てきた。報告のメインな内容ではなかったが、賢治作品における自然保護、環境保全に関連して、賢治が奥山の熊など、そして里山の犬、さらに市街地の商店の関係を十分念頭において作品を構成していたこと。そうした作品構成においては、賢治が若い頃から、アメリカの思想家、哲学者、作家、詩人でもあるR・W・Emersonエマーソン(1803-82年)の自然観、超越主義に興味を持っていた点を強調された。さらにエマーソンの影響を受けたH・D・ソロー(1817-62年)の環境保護運動、そして米・グランド・キャ二オンのカイバブ高原での鹿の捕食者と被捕食者の関係による絶滅の話題も紹介された。カイバブ高原の鹿については、こんな説明もある。
 「グランド・キャニオンに生存する最大の動物はエルクと呼ばれる大型の鹿。現存のエルクは、ロッキー・マウンテン・エルクと呼ばれ、実は1913年から1928年の間にイエローストーン国立公園から運ばれて定住したもの。では、もともとこの地にいたエルクはと言うと、残念ながら100年ほど前に絶滅してしまった。その原因は明確ではないが、ハンターによる乱獲、病気、または他の動物との生存競争に負けたこと、などが考えられる」(オアシス・バックナンバー00年11月号)
 いずれにしても生態系が無視されて、鹿の激増から餓死による絶滅の悲劇である。こうした中で、エマーソンなどの超越主義による自然保護思想が発言力を増し、賢治もまた盛岡中学時代から興味を持っていたとのことだ。そして、エマーソンもソローも、モリスと時代が重なっている。
イギリスに始まる産業革命の大量生産・大量販売・大量消費の波が、大西洋を渡りアメリカに拡大する。そうした中で工業化社会の開発による自然破壊が問題になる。そこから自然環境保護運動が始まり、歴史的建造物の保全の動きも生まれたのだ。
 エマーソンの『自然論』(1836年)がソローに影響し、賢治も『エマーソン論文集』(戸川秋骨訳)を中学時代から死ぬまで読んだらしい。その賢治が、産業革命の物質主義や金権主義を批判し、環境保護や歴史建造物保全に熱心だったモリスの文芸思想に惹かれていくのは、しごく当然なことでもあった。賢治やモリスの作品に鳥や鹿が描かれているのは、単なる素材としてではない。工業化社会を批判する新しい自然主義の思想に裏付けられていたのだ。
 今度の研究会でも、配布された資料には「彼らの自然保護思想:人間は自然の一部であり、生物はすべて同じ立場にあるという共生の考え方」、つまり超越主義の哲学思想が強調された。産業革命の機械制大工業は、中世までの農業を中心とした農耕社会の自然経済から、人間の自立と自然の利用の道を拓いた。人間は自然から独立して、機械を中心とする生産手段を利用、自然など労働対象に主体的に働きかけるシステムが資本制生産様式だった。
 しかし、軽工業から重化学工業へ、高度工業化は急速な生産力の発展とともに、単なる自然利用から、人間による自然の征服・破壊へ突き進んだのだ。大量生産・大量消費の効率主義は、市場経済のグローバル化とともに、産業公害から自然環境の破壊へ、今や地球温暖化が自然の生態系を破壊しつつ、人類を含めて生物の生存そのものを危機に陥れている。エマーソン・ソローからモリス、そしてナチュラリスト・賢治の今日的意義を確認すべきだろう。
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by kenjitomorris | 2008-03-31 21:47
宮沢賢治「鹿踊りのはじまり」
<情報コーナー>
 「賢治とモリスの館」ですが、今年は雪が少ないものの、やはり山深い作並の里です。仙台市内より積雪が多く、まだ車では近づけない状態です。ただ、春の訪れが早そうですから、3月末にはオープンの準備に入ります。ご来館をお待ちします。
 「館」閉館中ですが、その間を利用し、賢治作品の朗読の練習を続けております。2月2日、仙台市青葉区中央市民センターの「ふれあい祭り・和気藹々一番丁」に、NPO法人「シニアネット仙台」の朗読グループ「注文の多い料理店」が公開練習で参加しました。去年は三島由紀夫の作品でしたが、今年は賢治の「鹿踊りのはじまり」でした。この公開練習を踏まえ、5月16日には仙台福祉プラザで、午後1時30分から発表会ですが、ここで「鹿踊り」を朗読します。これから本格的練習、準備に入ります。ご期待下さい。
<研究ノート>
 「鹿踊りのはじまり」は、賢治が公刊した童話集『注文の多い料理店』に含まれている。刊行は1924年だが、目次の日付けは「1921・9・15」である。さらに「鹿踊り」が出てくる詩「高原」は、やはり24年に公刊の詩集『春と修羅』に収録され、その日付けは「1922・6・27」である。したがって賢治は、1921-22年にかけて、「鹿踊り」に特に興味を示していて、作品を書いていたのである。むろん「鹿踊り」は、昔からの郷土芸能であり、宮城県北、岩手県南に広く分布しているが、賢治がそれに関心を寄せた時期に、ここでは注目しておこう。

  「高原」は、わずか5行の」短い詩である。広大な北上山系の高原の風景が拡がる。生い茂るススキの穂が風になびき、そして光る。山並みが、海のように夕日に輝き、こだまが返る。雄大な自然に身をさらし、「鹿踊り」のはじまりを告げる。全体が方言で書かれているので、全文を紹介する。
    海だべがと おら  おもたれば
    やっぱり光る山だたじゃい
    ホウ
    髪毛  風吹けば
    鹿踊りだじゃい
 
 「鹿踊りのはじまり」、場所は北上山地。その「ほんとうの精神」を語る話である。
 賢治の童話のほとんどがそうであるように、ここでも擬人法が使われている。童話には、動物だけでなく、木や花、ときには星や岩石まで登場する。賢治の擬人法の特徴は、例えば「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュ、「紫紺染めについて」の山男のように、人間が一緒に登場することである。人間が、動物や植物と交わりながら、それらと一体になる。人間と自然が共生しながら、さらに交流し、融合していく。人間が自然を取り戻し、自然も人間を取り戻し、その懐に帰る。
 ここで登場する人物は「嘉十」、「北上川の東」の方から祖父たちと一家で移住し、「小さな畑を開いて、粟や稗をつくって」いる貧農だ。彼は栗の木から落ち、足を悪くして、秋の農閑期を待って、山の中の温泉に湯治に出かける、その途中の出来事である。
 嘉十は山道を歩きながら、ススキの野原の「10本ばかりの青い榛の木」の根元で、一休みする。背中に背負った荷物から「栃と粟とのだんご」を取り出して食べ、残りを鹿に食べさせようと思い、そこに置いてまた歩き始めた。しかし、すぐ「手拭」を置き忘れたのに気づき、取りに戻ると「6疋ばかりの鹿」が、もう集っていて「栃の団子」の周りを廻っているではないか。
 ここから鹿たちの会話が中心になる。鹿の関心は、嘉十の残してやった団子ではなかった。置き忘れた手拭だったのだ。嘉十と鹿の心が通じ合い、彼には「鹿のことばがきこえてきた」のだ。鹿は、嘉十の手拭の正体が分からない。生き物か、団子に仕掛けられた罠か、鹿が代わる代わる手拭に近づき、覗き込み、匂いをかぎ、触ってみる。鹿の警戒心と好奇心が織り交ざった会話が、方言を使いながらユーモラスに語られる。
 鹿は、熊やイノシシ、虎などと違い、獰猛な動物ではない。猛獣の仲間ではない。人間にも優しく、柔和である。金華山や奈良の春日大社の鹿は、人間と仲良しだ。しかし、犬や猫、牛や馬のように家畜として飼われていない。犬は家畜として、人間と共に生きてきた。気難しくて、我侭で、勝手放題の人間に、奴隷のように飼われてきた忠実な動物だ。しかし、鹿は違う。
 鹿という動物は、自分達だけで独自の群れをつくり、群生している。サルも群生だが、サル軍団のようなボスがいないのではないか。共に助け合いながらの共生型の群生だが、人間からは警戒して距離を置き、自立して共生する生き方がとても興味深い。
 鹿は、人間から自立するためにも、強い警戒心をもっている。嘉十の手拭を巡っての異常な警戒心と行動が、面白おかしく語られている。一方で強い警戒心を持ちながら、他方でまた好奇心が異常なほど強い。警戒心と好奇心は矛盾する。警戒するなら近寄らなければ良い。しかし、団子への食欲より、手拭への好奇心が先にたつ。物見高く、モノ珍しく、しかし警戒しながらの共生型の群生だろう。
 6疋の鹿たちが、好奇心に駆られながら、警戒の末に嘉十の手拭に下した結論、それは「こいづあ大きな蝸牛の旱からびだのだな」、つまりナメクジの干からびたもの。安心した鹿たちは、一斉に踊りだした。いよいよ「鹿踊りのはじまり」だ。方言で歌いながら群舞する。
     
   「のはらのまん中の  めっけもの
    すっこんすっこの  栃だんご
    栃のだんごは  結構だが
    となりにいからだ  ふんながす    
    青じろ番兵は  気にかがる
     青じろ番兵は  ふんにゃふにゃ
    吠えるもさないば  泣ぐもさない
    瘠せで長くて  ぶぢぶぢで
    どごが口だが  あたまだが
    ひでりあがりの  なめくじら。」

 好奇心を満足させ、警戒心から解放された喜びの歌と踊り、それが「鹿踊り」だ。踊りながら歌いながら、安心して嘉十が残してくれた団子を仲良く、一口づつ食べる。鹿たちの共生型群生は、分配も公平だった。「6疋めの鹿は、やっと豆粒のくらいをたべただけでした。」歓喜の合唱は、さらにひとりひとり鹿の輪唱に変わる。歌と踊りは、夕日に映える自然と一体になりながら、そして嘉十も巻き込みながら、自然の巨大な交響曲のように盛り上がる。
 「嘉十はもうまったくじぶんと鹿とのちがいを忘れて、<ホウ、やれ、やれい。>と叫びながらすすきのかげから飛び出しました。」
 驚いた鹿は逃げ出し、嘉十も「ちょっとにが笑いをしながら」自分の手拭を拾い、また西の温泉に向かって歩き始める。

 賢治は、最後に「わたしはこのはなしをすきとおった秋の風から聞いたのです」と、書いている。秋の風が語ってくれた、「野原に行われていた鹿踊りの、ほんとうの精神」とは何か。賢治の設問には、読者がそれぞれ自分で考えて、答えるべきだろう。
 この童話が収録されている『注文の多い料理店』、自費出版だったこともあるだろう、その宣伝文を賢治自ら書いていた。そこで「イーハトヴは一つの地名である」「ドリームランドとしての日本岩手県である」と明記した。賢治は一人の日本人Utopist として、岩手県をユートピアに見立てつつ、「イーハトヴ」の造語地名を考え付いたのではないか?それには英W・モリスなどのUtopistの思想の影響があったと思う。
 このUtopist の思想には、自然との共生を踏まえた、共同体の相互主義と連帯の共助の思想が強い。賢治は、北上山地の「鹿踊り」の共生と共助の歓喜の歌と踊りに、自らの「イーハトヴ」の夢を描き、そこに生きる地人像(羅須地人協会の地人)を湯治に出かける農民「嘉十」に求めたのではないか。有名な『注文の多い料理店』の序文にある「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたしはそのとうり書いたまでです」という賢治の言葉を実感できる作品だろう。
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by kenjitomorris | 2008-03-03 12:16
R・ラムネとP・ルルー、L・ブラン
 モリスは、マルクスの科学的社会主義に向けての移行期、転換期の思想として、プルードンの役割を大きく位置づけた。さらに14章「Utopistから近代社会主義への移行」においては、キリスト教社会主義者ラムネ、神秘主義のルルー、そして人道主義のR・ブランを挙げている。社会主義の思想の多様性、その深層に配慮しているのであり、「われわれは、その中であまり重要ではないが、2人(じつは3人)の名前を挙げたい。今日のセンチメンタルな社会主義やキリスト教社会主義の先駆者としては注目の価値がある。」
 まずラムネ(1782-1854)は、「キリスト教社会主義者のタイプであり、始めから牧師を志ざし、順調に司祭の職に付いた。彼は幸福、道徳、改革のための効果的な組織になるよう、カトリック教会を改革するよう努力した。このような努力について、聖職から助けられたり励まされたりもした。そして、最初に彼が実践活動に入るに当たり、彼らから若干の知識も得ていた。しかし、最終的には『将来』という雑誌の論文の中で、非常に民主的な改革を主張し、すべての教会、特に当時の法王ジョージ16世の怨みを買うことになった。彼の教会との決定的な決裂の兆候は、彼の『一信者の言葉』(1813)の出版で見られたし、法王も<体は小さいが、ひどく気の強い>と特徴付けていた。この後、彼は完全に民主的、共産主義的にさえなり、共産主義がそこで理解されるにいたった。そして、一連の政治的著作、パンフレットが続き、彼の新しい出発点を意味した。1848年には、彼の2つの論文が次々に弾圧された。彼はクーデターまでは、共和制議会に籍を置いていた。そして、余りにも革命的な内容で拒否されたが、代議士として憲法草案を左翼の側に引き寄せようとした。彼は、聖職の儀式抜きで、自分独自の方式で埋葬された。」
 以上、モリスによる紹介だが、ラムネは18世紀仏の合理主義哲学を批判し、社会契約論もまた「哲学的虚栄」として非難した。当初、若い自由主義的なカトリック教徒を結集し、自由主義と教皇至上主義とを結びつけた独自の理論を唱導した。この教会改革運動も、教皇がレオ3世からグレゴリウス16世に変わり、厳しく弾圧される中でラムネは、次第にカトリック信仰から離れ、サン・シモン流の社会主義の闘士となった。48年革命当時の活躍は目覚しく、極左派の活動を活発に行った。51年ナポレオン3世のクーデターの後は政界を去り、誰からも忘れられ、内的に挫折したまま、貧困のうちに亡くなった。教会改革のほか、政治面での彼の主な活動は、国家と教会の分離、聖職者への国家給与の廃止、中央集権主義の反対、地方分権自治の拡大などで、マルクスも例の『内乱』のなかで、第一草稿の補足の部分だが、「中央集権制は、パリに溢血をもたらし、それ以外のいたるところに生命の喪失をもたらす」というラムネの言葉を引用していた。
 次にP・ルルー(1798-1871)を、モリスは簡単に紹介する。
 「彼は、もともとサン・シモンの弟子だった。1840年に、彼の最も重要な著作『人類について』を出版した。これから彼の学派の名が「人道主義者」となった。彼は文学評論でジョルジュ・サンドやニアードフと一緒になったが、それも彼女の小説が人道主義の傾向を持っていたからである。1843年には、協同印刷協会の共同体組織を立ち上げ、「プロレタリアの問題の平和的解決」という名の雑誌も発行した。48年には、共和制議会に籍を置いている。しかし、51年には亡命しエルサレムで生活し、69年まで仏には戻らなかった。彼は、パリにおいて、<コンミューン>のもとで死んだ。しかし、彼の葬儀に列席したメンバーを代表した2人が『オフィシャル・ジャーナル』の中で<今日も、われわれが被害を感ずる神秘主義の考え方をもった哲学者としてではなく、6月の日々征服者の防衛を勇敢にも行った政治家の名誉のため>と書いている。これは、彼の考え方の非政治的、非実践的な傾向への当てつけである。しかし、これもまた、神秘主義で盲目になった道徳を教え込むことで社会改革を進め、自発的な協同の漸進的拡大を図ろうとするものだった。」
 ルルーについても少し補足すると、通説では1798年ではなく97年に、パリに近いベルシで職人の家に生まれた。家が貧しいため石工、植字工など、自ら働くうちに知識人と交わり、サン・シモン派の機関紙『ル・グローブ地球』の有力メンバーになった。「産業的自由」の立場から、次第に「人間的自由」の立場に変わり階級対立に反対、平等主義を主張した。上記の『人類について』は、そうした立場から文学者にも大きく影響した。文学者の協力を得て、『独立評論』、『社会評論』等を刊行、自らも文筆家として活躍した。48年革命には参加しなかったものの、議会に選出され、社会主義的極左派に属した。しかし、「感情と抱負」の宣伝家として、余りにも抽象的かつ神秘主義的になり、キリスト教だけでなく仏教まで含む、汎神論的な宗教的教理を主張するに到った。彼はパリ・コンミューンに参加し、彼の死に対しコンミューンは弔辞を送ったが、「1848年6月の蜂起の直後、勇敢にも敗北者の弁護を引き受けた政治家として敬意を表した」ものの、モリスも引用した通り、上記のような神秘主義的偏向への「当て付け」が加えられたのだろう。
 モリスは、「われわれは、このシリーズの最後を周知のR・ブランで終わろう」と述べ、以下のようにR・ブラン(1811-1882)について説明している。ただ、モリスの説明では、ブランの生年と没年が、ここでも通説と違っている点に注意したい。
 「彼もR・ラムネと同様、原則的には上記の人々より社会主義的でより重要な人物である。ただ、後述の彼の政治上の経歴からみると、ある意味では価値のないものに終わってしまったのだ。たとえ、彼が階級闘争を通してのみ社会の再生が可能だという、大いなる真理をまだ把握できなかった、との弁明を受け入れたとしても、そうなのだ。
 彼は1813年、母方がコルシカ人だった中産階級に生まれた。そして、彼と兄弟のチャールズとの関係が、有名なデューマの短編小説や戯曲『コルシカの兄弟』に示唆を与えたと言われる。1840年、彼は『労働の組織』を出版したが、そこでの考え方が、よく知られるようになった有名な<国立仕事場>として実現された。この著作で、彼は純粋な社会主義の極限とも言える、そして現実の社会的生産の基礎ともなる<能力に応じて働き、必要に応じて与えられる>原則を提起した。
 彼は1848年の革命政府で活発に活動し、特に政治犯の死刑廃止の勅令を通した。また、彼の<国立仕事場>が、その固有な欠陥で失敗した点で、一般に悪く思われてはいるが、それは政府が危険だとして抑圧したこと、その抑圧も大部分6月革命をもたらした原因にある点に注意すべきだ。けれども、われわれはまた、この計画が純粋に社会主義者の原則に立脚していなかった事、その時点では危険だと考えられてしまった事も、同時に述べておかねばならない。7月事件の結果、彼は仏からイギリスに亡命を余儀なくされた。そこで『仏革命史』を執筆した。
 1869年、彼は仏に戻り、立法院に選出されたが、その後の展開では副次的役割を演じただけだった。実際、彼は3月の日々(パリ・コンミューン)では、人民を見捨ててパリを離れ、ベルサイユで反動的内閣の<自由派>に収まるという、上述の彼の人格に消し難い汚点を残している。1883年に死んで、彼の世評も影響も消え去ってしまった。」
 ここでも若干の補足をしておく。R・ブランの父は、スペイン王J・ボナパルトの高級財務官だったが、ナポレオンの没落で失職、窮乏生活を強いられた。1830年7月革命の最中、パリに出て法律を学び、彼もラムネと同様、『国民』、『協和評論』、急進的な雑誌『良識』などの編集にタッチした。さらに39年『進歩評論』、『民衆新聞』を創刊、その中で上記の『労働の組織』も出版された。これは48年まで10版を重ねたベストセラーで、多くの労働者に読まれた。
 彼はブルジョア社会の競争による富の格差を批判、「社会的仕事場」による生産と消費の「協同組合」の建設を提案した。サン・シモン、フーリエの考えに近いが、ブランは国家の役割を特に重視、国有化を主張した。その国家も、共和主義的国家であり、急進的共和主義者として、仏大革命の「自由・平等・友愛」に対し、個人主義を友愛主義の原理に変える革命を主張した。48年2月革命では臨時政府の労働者代表となり、労働委員会の設立によって労働時間短縮、下請け制の廃止などを実現した。ただ、彼の「国立仕事場」の提案は、完全に骨抜きにされて失業対策事業になり、モリスの言うとおり、かえってブラン自身が批判にさらされる原因となった。
 
 以上、3人のUtopist社会主義から、マルクスの「科学的社会主義」への移行期の社会主義の動向を、モリスの紹介を補足しながら紹介した。エンゲルスの『空想から科学へ』が、単なるイデオロギー的仮説に過ぎない「唯物史観」を下敷きにした、硬直的なイデオロギー的処理だったとすれば、モリスの紹介によって、この時代の社会主義の思想の多様性が浮かび上がってくるのではないか。こうした多様性の中から、マルクスが唯物史観のイデオロギー的仮説を乗り越えて、『資本論』により社会主義を科学的に基礎付けようとしていたのだ。
 すでに明らかなように、社会主義の思想の多様性は、それ以前に遡ることもできるが、仏大革命から19世紀の70年代まで、一方で経済面では、産業革命の工業化が、英から仏へ拡大して資本主義が確立を向かえた。この資本主義の確立とともに、古典派経済学を中心に、経済学の科学的発展が進んだのである。同時に他方では、政治的には仏大革命、そして1848年革命、さらに普仏戦争に伴うパリ・コンミューンへと、段階的に激動の波が押し寄せた。
 エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的テーゼは、こうした変化を十分に踏まえたものか?歴史の激動の中で生まれた社会主義の思想の多様性を、十分に踏まえた「空想的社会主義」批判ではなかったのではないか。とくにマルクスが、48年革命時点での唯物史観と未熟な「経済学批判」の体系を、自己批判的に乗り越えて60-70年代に『資本論』体系を構築した、それをどのようにモリスのユートピア社会主義が受け止めようとしたか、次の課題はマルクスの「科学的社会主義」である。  
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by kenjitomorris | 2008-03-01 21:00



賢治とモリスの館 - 最新情報
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