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プルードンの位置づけ
 モリスは、Utopistからマルクスへは、一挙に進まなかった。第14章「Utopistから近代的社会主義への移行」と題して、プルードンやキリスト教社会主義の役割を論じている。モリスらしい社会主義思想のアプローチであろう。「Utopistから社会的発展段階の社会主義、言い換えると科学的社会主義への架橋の役割を果たした、その最も特筆すべき人物はプルードンである。彼は1809年にブザンソンに生まれた。生まれたときから労働者階級に属し、彼の父は醸造の桶職人であり、彼自身も若い時は牛飼いの仕事をした。」ここでも、モリスの説明に少し補足して、紹介しておきたい。
 教育熱心な母親は、貧困の中でプルードンを地元ブザンソンのカレッジに通わせた。しかし、父親の事業失敗のため、大学進学を断念し、印刷所で働きながら独学で勉強した。その間、1829年同郷のフーリエの『産業的・協同的新世界』の印刷の校正を担当した。「まる6週間、この天才の虜となった」と述懐している。この後、「1813年に、一般的文法についてのエッセイを出版した。さらに1839年に、地元の町へのシュアール夫人の寄付による3年間の奨学金を得ることが出来た。この利益の結果として、彼の最大の作品ではなかったが、最も重要な著作が同年出版された。シュアール夫人の奨学金が義務付けていたエッセイ執筆であり、タイトルは『財産とは何か』で出版され、彼の答えは<財産とは盗みである>だった。
 ご想像のとうり、注目すべきエッセイ『財産とは何か』は、多くの憤激を買ったことで評判になった。ブザンソンのアカデミーも、この作品を非難したが、何とか起訴だけは免れた。1841年、彼はフーリエ派であるV・コンシデランに手紙を書いたが相手にされなかった。さらに1846年には『貧困の哲学』を書いたが、これはK・マルクスから念入りな反論で論破された。」
 ここでのマルクスの反論とは、仏語で書かれ、単著として始めて公刊された『哲学の貧困』である。プルードンの著作のタイトルをひっくり返した皮肉な表題とともに、マルクスによる初めての空想的社会主義批判であり、後の「経済学批判」体系の骨格が提示されたとして、従来マルクス経済学では高く評価されてきた。しかし、内容的にはヘーゲル哲学の理解の弱さを突き、リカードの経済学によるプルードン批判に過ぎなかった。その点では、『資本論』などから見れば、マルクスの経済学研究の未熟さが目立つ。むしろプルードンの『財産とは何か』の問題提起を受け、私的所有と労働、地代、利子、利潤との関係を理論的に明らかにする重要な切っ掛けとなった点が重要だろう。にもかかわらず青年マルクスの反権威主義の性癖により、1843年「ライン新聞」退社後のパリ生活から始まったプルードンとマルクスの交友関係は断絶した。
 その後プルードンの著作は、『人類における秩序の創造』(1943)『経済的諸矛盾の体系』(1846)と続くが、48年革命で注目すべき活動が展開された。さらに、モリスの説明を聞こう。「彼は1847年パリに出た。48年革命では、自ら活発な討論者として登場した。そして、セーヌの代議士にも選ばれた。彼は沢山の論文を各種の雑誌に書いた。その大部分は、革命の展開についての批判だった。議会では、あらゆる利子や地代について、課税を3分の1にするよう提案した。これは当然のことながら拒否された。彼はまた相互信用銀行の提案もした。取引を簡単化して、利子が消えるまで下げるよう望んだが、これまた拒否された。」
 48年革命に対するプルードンの立場を説明しておくと、政治改革に専念するジャコビニズムや、国家による経済改革を志向するルイ・ブラン流の考えに対し、上からの政治革命ではなく、経済的・社会的革命でなければならず、国家によっては達成されない。むしろナショナリズムは、中央主権を強化するだけだと主張した。獄中での『一革命家の告白』(1849)『19世紀における革命の一般理念』(1851)であり、さらに1958年には、人間と社会における正義とは何かを明らかにした大著『革命と教会における正義』を発表した。この著作は、数日で6000部も売れるベストセラーとなったが、秩序撹乱のかどで残部は没収された。モリスも、この間の事情を次のように述べる。
 「48年革命の失敗の後、3年間投獄された。その間、プルードンは労働者階級の若い女性と結婚した。1858年彼の<相互主義>の体系は、『革命と教会における正義』に発展した。この出版のため、彼はブリュッセルに亡命せざるを得なくなったが、1860年には大赦により仏に帰国、65年にパッシイで亡くなった。」  
 この後モリスは、プルードンの思想と著作の関係について、とくに以下のように説明している。プルードンの存在が、それだけ大きいからであろう。すなわち、「プルードンの主張と著作は、大きく2つの時期に分けられる。『財産とは何か』では、彼は純粋で単純なコミュニストだった。しかし、その後の著作の中では、一定のテーゼの明確な発展に出会う。彼の行動についてもそうだが、非常に多くの矛盾に満ちている。だから、簡単にプルードン主義の教条を定式化できないことを、付け加えねばならない。ある時点ではコミュニストだが、他の時点では熱烈な反共産主義となり、ある時には洗練された無政府主義者、別の時点では未熟な国家主義の政策を出し、ある時には熱心な有神論、別の時は明白に強い無神論だったりする。彼の著作も、あるページではA・コントの女性崇拝に熱烈な崇拝を寄せたかと思えば、他のページでは女性を強く蔑んでいる。彼の著作を精読すると、一種の混乱が生じてしまう。
48年革命との彼の関係が、歴史の転換点だったようである。セーヌの有権者への手紙の中で、彼は国家社会主義的な性格の数多くの布告によって支えられた、信用銀行のための政策を提起していた。ビスマルク流の強い調子で、『財産は略奪だ』と述べた人間として自己宣伝し、さらにその意見を維持していると言いながら、彼の最初の著作で消去したはずの財産権を擁護したのだ。
 しかし、政治的経歴としては、一定の社会的理念をもった人間の成功にとって、取り込むべき要素は一つだけでは不可能だ。一方では1789年の政治や理念の考古学的復古のジャコバンだし、他方では社会主義は、自らを提示し、人々の心を捉えるが、しかしその原則実現には未熟で混乱し、その結果、展望のない行動の計画によるしかなかった。こうした諸事情の中で、プルードンは抜け目なく見えたし、洞察力もあった。時代の混乱についての彼の厳しい批判は、十分に根拠付けられた事情で示された。
 プルードンは、近代的家庭や一夫一婦制を厳密な意味で擁護した。また、これらの制度の歴史を学ぶ上で、表面上彼自身混乱していたようには見えない。端的に言って、彼は歴史的センスに欠けていたようには見える。また、社会の進歩の概念を作らなかった。彼の著作を読む者は、もし彼の中に思想の一貫性を求めようとするなら、『財産とは何か』という最初のエッセーに立ち戻ってみるべきだろう。彼は熱烈だが、荒々しい論争家だったし、そのスタイルは散漫であるにもかかわらず、鋭敏かつ魅力的なのだ」
 モリスによるプルードン評価は、微妙なニュアンスに富んでいる。マルクスやエンゲルスのように一方的に論断する手法を避けている。弁証法の影響もあるだろうが、プルードンの思想や理論、さらに実践に見られる多くの矛盾や多面性、変節も、複雑な政治活動やイデオロギーの混乱にみられる時代的制約を重視しているのが分かる。モリスには、プルードンの立場が、『財産とは何か』の原点にあった共同体的な所有、相互主義の思想にあり、政治的な国家主義への批判に共感していたのではないか。とくに、プルードン主義の強い影響の下、第1インターの国際労働者協会がスタートし、国家や政党から自立した労働者の「連合主義」の思想が、パリ・コンミューンでの市民による直接的・民主的管理の思想だったことを前向きに評価していたからだろう。  
 
 
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by kenjitomorris | 2008-02-22 22:25
オーエン、サン・シモン、フーリエ(3)
 フーリエ(1772-1837)は、プザンソンの富裕な繊維商人の長男として、リヨンで生まれた。学業を修めた後、商人の道を父から選ばされたが、1793年リヨンで植民地商品の取引に従事した際、仏大革命の渦に巻き込まれた。そのため投獄の憂き目に会い、財産をすべて失うことになった。モリスも「彼は大革命で財産を失い、その後はブローカーの仕事に入った。Societyとの関わりの中で、彼は早くから個人主義と競争の弊害や不正に衝撃を受けた。彼の最初の著作”4運動の理論”の中では、人間性は本能と情念の自由な発露で完成されると提起し、貧乏や悪徳はSocityによる抑圧から生ずる、と主張した」と紹介している。
 このフーリエの『4運動の理論』は、1808年に匿名で公刊された。しかし、突飛な着想、多数の造語、難解な表現のために理解されず、極めて不評だった。しかし、この著作が彼の思想の源泉となり、その後次々に著作が発表されることになった。1822年『国内農業社会につて』、1829年『産業的協同社会的新世界』、1835-6年『虚偽産業』である。こうした著作活動により、少しずつ信奉者が集まり、1826年には住居をパリに移すことになった。
 モリスは、フーリエの理論について、「彼の近代社会批判は、科学的社会主義に先行するものとしては、最も価値あるものである。同時代のものと異なり、彼は歴史的発展を段階的に洞察していた」として、高く評価している。また、ここでもエンゲルスの『空想から科学へ』から、次のように引用する。「フーリエはこれまでの歴史の進行を4つの発展段階に区分している。すなわち、未開時代、野蛮時代、家父長時代、文明時代である。この最後のものは、今日のいわゆるブルジョア社会である。」さらにモリスは、フーリエの言葉「文明時代には貧困は過剰そのものから発生する」は、「1816年のロバート・オーエンの言葉<われわれの最善の顧客、戦争は死である>とともに、今日よく引用される」とコメントしている。
 モリスはさらに、フーリエの社会主義の内容について、以下のように紹介する。「彼は、社会再生の基礎として<産業協同化>を提唱した。しかし、彼のユートピア主義のために、ドグマ的に生活のあらゆる細部に亘り、領民を計画するように形作る罠にはまってしまった。その計画は、基礎にある原則は良かったが、実施できるものではなかった。彼の計画は、共同化の基礎単位として、ファランジュを配置する。そこでは、あらゆる生活、あらゆる産業、農業や他の産業も含めて、あらゆる細部まで詳細に亘り協同化され、そのさいファランジュは1600人で構成されている。
 彼の考え方で、最も価値があると思われるのは、能力に応じて労働が割り振られる可能性と必然性だった。そこでは、不断に喜びを感じることが保障され、子供がドロ団子を捏ねたり、乱雑にしておく、そんな汚い協同体の仕事も行うべきだと主張し、それが少なくとも考え方の実例だし、法律としても決められるものだった。彼のシステムは、純粋に平等なものではなかった。富裕と貧困(相対的だが)の差は容認され、また労働、資本、能力に対する富の分配も恣意的だった。結婚の廃止は、彼の原則的な信条だった。
 1812年、フーリエの母が死んで、若干の財産が残された。そこで、彼は『国内の協同と農業』を書くために、田舎に引っ込んだ。その後、再びパリに戻り、米国企業の社員となった。そして1830年には『新産業的世界』を書いた。さらに嘆かわしい事だったが、1831年にはオーエンやサン・シモンをイカサマ師として攻撃してしまった。両者ともに、彼と類似性が多かったにもかかわらずである。彼は1837年に亡くなったが、死ぬまで学派を作らなかった。死後、『社会的運命』の著者Ⅴ・コンシデランが、その最も有名なメンバーとなったフーリエ主義派は、1832年に機関紙を始めたが、2年で終わった。しかし、1836年に再生したものの、1850には政府により弾圧されてしまった。」
 モリスは、以上のようにフーリエについて説明した後、さらにオーエン、サン・シモンなど3人に関して、次のようにコメントしている。
 「1832年には、ファランステール(フーリエ主義による共同生活および住宅)を実験的に実現するための計画が、仏下院議員により着手された。しかし、これは資金不足で失敗した。それゆえ、3人の偉大なUtopist のうち、オーエンのみが良いも悪いも、経験的に将来実験される計画の唯一になった。事実、1848年の革命家・カベは、米にイカリアの名でコミュニティを建設したが、それはユートピア社会主義の原型となる他のどんなコミュニティよりも純粋なコミュニズムに近いものだった。これらのコミュニティから、早期社会主義への予告となるものが残っている。そこから協同(アソシエーション)の実験として学ぶべきものはあるが、生憎それがしばしば適用されたが、その生活の状態はコミュニズムの名に値するものではなかった。コミュニズムは、政治的権力を持った労働者により、現在の社会体制が崩壊するまで、決して実現されない。それが起これば、コミュニズムは興味尽きない、また変革された文化を意味することになろう。」 
 いわゆる空想的社会主義をUtopistとしたモリスの社会主義は、コミュニティを基礎としたものであり、地域の人々の協同(アソシエーション)による、協同組合的なものとして構想されていることが分かる。その点で、オーエンの実験によるニューラナークの協同組合を高く評価したし、さらにフーリエのファランステールの評価にもつながったものと思われる。もちろん、サン・シモンの階級闘争史観の発展段階説の評価もあるが、それは資本主義を歴史的に捉えた点での評価であり、社会主義の目標はコミュニティを基礎として構想されていたのではないか。
 ただ、Utopistの限界として、最後にモリスがコメントしているが、①資本主義を変革する主体として、労働者の運動の位置づけが十分でなかった点、さらに②労働者の運動の政治的意義が十分に捉え切れていなかった点、の2つをあげている。この労働運動の体制変革が、プロレタリアの独裁として国家権力の奪取に向けられるのか、それともコミュニティの新たな復権に向かうのか、新たな論点提起がなされたのであろう。
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by kenjitomorris | 2008-02-18 14:38
オーエン、サン・シモン、フーリエ(2)
 つぎにサン・シモン(1760-1825)だが、仏大革命とナポレオン時代に生きたフランス社会主義者の一人である。「パリの高貴な家庭に生まれたが、並外れた奢侈から極貧まで、様々な生活を放浪しつつ体験した。彼には、オーエンに特徴的だった擬似<社会主義>のシェーマに関する実践的体験の傾向は無かった。」モリスは、こう紹介しているが、ここでも少し補足しながら、説明しておきたい。
 『サン・シモン著作集』全5巻を単独で訳出された故森 博氏によると、「著作の中で断片的な自伝を幾つか書いている」が、「自己宣伝的意図から発したものであって、---そのまま正直に受け取るととんでもないことになる。」「信用できる部分はごくわずかしかない。」「成人前のサン・シモンのことは、ほとんど何もわかっていない」とのことである。古い名門貴族の家系の長男であることは間違いないが、生まれもパリではなく、父の所領地ペロンヌの城で生まれたとの文書もある。子供の頃から、異才、奇才の持ち主だったことは確かであり、そのためにモリスの言うとおり「並外れた奢侈から極貧」までの放浪生活を送ることになった。天才肌に有りがちな性格破綻による奇行が目立っている。
 そこで正確なところだけだが、18歳で軍隊に入り、当時の米・南北戦争に従軍、2ヶ月ほど米に滞在した。帰国後、1787年に軍隊を離れ、スペインの産業化計画に熱中したが失敗、仏大革命のさなかに帰国、革命運動には熱意を傾注した。しかし、同時に国有地の投機的売買にも耽り、多大な利益を手に入れている。ただ、投機に関連して詐欺行為の嫌疑をかけられ、逮捕されて9ヶ月間、投獄されることになった。
 しかし、この投機によって手に入れた利益をもとに、広く科学者、文学者、芸術家と交わり、学問的知識を身に付けた。その後、彼の旺盛な執筆活動が開始され、1803年「ジュネーヴ人の手紙」、1807-8年「19世紀科学研究序説」、1813年「人間科学研究覚書」と執筆が続いた。この時点では、まだ人間の社会関係を、生物や物理の自然科学になぞらえて体系化しょうとしていた。しかし、その後1814年「ヨーロッパ社会の再組織」から政治経済論に転換、「産業主義」を提唱するに到った。1816-18年代表作「産業」が刊行され、その趣意書には「社会全体は産業を基礎に成り立つ」と書かれ、題辞も<すべては産業によって、すべては産業のために>とされた。仏への産業革命の拡大が背景にある。
 サン・シモンの産業主義の理論では、単に工業化の産業重視にとどまらず、産業を基礎とした歴史の発展史観が提起されたことが重要だった。しかも、階級対立や階級闘争が歴史を貫く階級闘争史観であり、こうした歴史観がマルクス、特にエンゲルスの唯物史観に直結することになった。モリスもそうした点を配慮しつつ、以下のように紹介している。
 彼の哲学は、新しい神秘主義が交じり合ったもので、生活の新しい状態を実践するより、むしろ新しい宗教を作り、それを拡大させる傾向だった。それは、彼の直接の後継者たちによる、ある種の個人崇拝ともいえる不合理に帰着することになった。それはまた、彼がもっとも可愛がった弟子のA・コント、彼は今日では実証哲学の創始者となったが、によっても模倣された。
 彼の社会主義は空疎なもので、サン・シモン主義のモットー「彼の能力に応じて、彼の行為も従う」という、知識階級の存在を容認するものだった。しかし、彼の神秘主義の傾向にもかかわらず、R・オーエンに先行して、歴史的かつ経済的な点に内的な光を当てていた。彼はどんな手段でも、またどんなに高価な犠牲を払っても、新たな宗教に身を投じるために、あらゆる生活を学ぶことを自らに課した。その宗教は、<大きな目的が、最も貧しく、最も多数を占める階級の道徳的、かつ物質的な状態の可能な限り迅速な改善>だったのである。」
 モリスは、ここでエンゲルスの『空想から科学へ』における、サン・シモンについての評価を引用している。R・オーエンとの違った扱いだが、そのまま引用しよう。
 「サン・シモンはすでに『ジュネーヴ人の手紙』のなかで、<人間はすべて労働すべし>という命題を立てている。この同じ著書の中で、彼はすでに、恐怖支配は無産大衆の支配であったことを知っている。彼は無産大衆にむかって呼びかけている。<君たちの同志たちがフランス支配した時代に、そこでなにがおこったかをよく見たまえ。彼らは飢えをうみだしたのだ>と。だが、フランス革命を、たんに貴族とブルジョアジーとのあいだばかりでなく貴族とブルジョアジーと無産者とのあいだの一つの階級闘争と解釈したことは、1802年では極めて天才的な発見であった。1816年に彼は、政治学は生産にかんする学であると声明し、また政治学が経済学にすべて解消することを予言している。ここでは、経済状態が政治的諸制度の基礎であるという認識が、ようやく萌芽的にあらわれているにすぎないけれども、人間にたいする政治的支配が、事物の管理と生産過程の指導とに転化していくということ、したがって近ごろあれほどやかましく述べたてられた<国家の廃止>ということが、ここですでに明言されているのである。」
 モリスは、「国際主義についてもまた、サン・シモンによって明確にされていた」として、エンゲルスからの引用をつづけている。
 「同じく同時代人に卓越しているのは、彼が、連合軍がパリに入城した直後の1814年と、それからなお百日戦争中の1815年に、仏英との同盟、第二次的にはこれら両国と独との同盟が、ヨーロッパの繁栄と平和との唯一の保障である、と宣言したことである。1815年のフランス人にたいしてワーテルローの勝利者との同盟を説くには、実際に、歴史的先見とともに勇気が必要であった。」
 このようにサン・シモンについては、R・オーエンの扱いとは異なり、エンゲルスの『空想から科学へ』からの長い引用と、エンゲルスの階級闘争史観と国際的視点への高い評価を、モリスは引用した。しかし、最後にモリスは、サン・シモンに批判的な指摘もわざわざ加えた。「その時代に最も嘲笑されていたサン・シモンの計画のひとつは、スエズとパナマの海峡の開削であったし、M ・de Leseepsはサン・シモンはだったことも、とるに足りない」と。そして「サン・シモンは政党の将来への期待を漏らして、1825年に貧困の中で亡くなった。」
 
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by kenjitomorris | 2008-02-12 11:55
オーエン、サン・シモン、フーリエ(1)
<研究ノート>
 モリスは、Utopistとして著名な3人を取り上げている。そして、それぞれの思想の中身に立ち入る前に、Utopistを「近代的な科学的、もしくは革命的な社会主義に先行する思想家の学派」と位置づけている。近代的な科学的社会主義としては、当然のことながらマルクスの『資本論』を基礎とする社会主義であり、だからモリスは科学的基礎を十分持たない社会主義の思想家を、Utopistとしていたのだ。
 このUtopist に共通して言えるのは、「教訓や事例により、教師自身の願望や洞察から作り上げた再建のシェーマを教えたり、社会の短所や愚行や不正を提起することによって、社会を再生できると考えた」点にある。また、彼らは「その力に気付いているかどうか、人類の社会的変化に及ぼす事態の結果を認識せず、その内的合理性の知覚により彼らのシェーマが一般的な採用を獲得できると信じていた。」そして、「現存する文化の混乱や貧弱さを、彼らが展望する世界の秩序や幸福と比較して見せれば、それだけで人々が社会主義を意識的、かつ公的に受け入れて変革できるものと期待していた」と述べている。
 そうした特徴をもち、将来社会を具体的に描いていて、かつ時代的に年齢も近い3人(オーエン1771-1858、サン・シモン1760-1825、フーリエ1772-1835)を代表させたのである。ここでは、モリスの説明に、少し補足を加えながら紹介しよう。
 まず、R・オーエン(1771-1858)だが、英ウェールズのモンゴメリーシャーのNewtownで下層の中産階級の家庭に生まれた。自叙伝によれば、4-5歳で通学、7歳で助教師を務める秀才で、10歳で故郷を離れ、スタンフォード、ロンドン、16歳のときマンチェスターに移り、18歳で経営者として独立した。 モリスは、この時代「機械制大工業の勃興期」で、製造業が飛躍的に発展した、そうした時代的背景があった,と述べている。
 具体的に補足すると、1889年に合資会社で従業員40人雇用の紡績機械製造に乗りだすが、すぐに合資を解消し、90年には500人雇用の紡績工場の支配人になる。その後3人で、独立した紡績工場を設立し、さらにスコットランドの著名な銀行家・製造業者の長女アン・キャロラインと恋に落ち結婚、その縁でニューラナークにあった紡績工場を買収し、スコットランドに移住することになった。
 モリスは、オーエンについて「いい意味での生まれながらの博愛家で、始めからすべてに寛大で雅量に富んでいた」と指摘している。「1800年、まだ30歳にもならなかったが、彼はニューラナークの水力工場の経営者になり、最初の偉大な実験を始めた。それは、貧乏で、知能が低く、不品行な人々を、幸せで、勤勉、協調的な人間に変えることであり、それは人間が環境の生物だという理論によるものであり、完成に向って粘り強く努力すべきだ、という理論だった。この実験に彼は完全に成功した」ことを強調する。
 さらに「人間の性格は環境により決定される」という彼の「性格形成原理」は、蒸気船の発明家R・フルトンなどとの交友から生まれたものだが、イギリス功利主義の一面を代表している。それがオーエンの経営哲学にもなっていた。モリスもまた、「彼はあらゆる種類の博愛の計画をはじめたし、あらゆる行動も環境を改善することが人間を完成に導く、という理論によるものだった。」さらに、それは「今日の協同組合家たちとは違うが、普遍的な協同組合の実現こそ、社会問題の解決になる、という最初の偉大な協同組合主義のチャンピオンとなった」と、高く評価している。
 オーエンの協同組合は、まず賃金の安定的支払い、生活必需品の原価販売、幼児・児童の学校設立などであり、1813-14年には『新社会観』を発表した。「性格形成原理」に基づく、協同組合活動の実践からの論説集であり、第4論説では「統治への応用」が提起された。「最大多数の最大幸福」のベンサム功利主義をベースに、犯罪に対しては、処罰より予防を重視し、そのために居酒屋、宝くじ、宗派差別、救貧法などを廃止し、失業対策事業の提唱などを力説した。そして、その政策実現の方向で活動を展開する。
 一つは、労働条件の改善であり、モリスも紹介しているが、「1815年には、オーエンはグラスゴーの製造業者の集まりに働きかけ、水力紡績業における労働時間短縮を議会に請願した。」新たな工場法の制定であり、10時間への労働時間の短縮、10歳未満の児童労働の禁止、若者の教育の付与など、部分的に骨抜きにされたものの18年工場法に実現した。こうした中で、オーエンの思想と行動の影響力は大きく、労働組合運動にも影響を及ぼした。
 モリスも、こうした「支配階級の認可から禁止への転換が、ブルジョア伝記作家が言うように、オーエンの提起や遣り方から首尾よく始まるかもしれない。また、彼の協同組合に賛同した宣言の後でも、彼が最後に(1816年8月21日)公認された宗教を通して、公的にSociety(協会)を攻撃したことにより体面を傷つけるまで、彼は著名な博愛家の地位を保ちつづけていたのだ。しかし、その日以来、いまや公然たる敵として、協会から跳ねつけられることになった。しかし、彼は少しも挫けなかった。」
 「1823年、彼はアイルランドの困窮への救済として、共同体的村落を提案した。1832年には、労働と労働が等価に交換される交換所をグレイズ・イン・ロードに建設した。そして1825年
、すでにそこに建設されていたニューハーモニーを共同体から買い取った。そして、彼の偉大な協同生活の実験が始まった。後に、『新道徳世界書』を出版したが、そこには彼の理念が説明されている。」
 最後に、モリスはオーエンについて、実践的には問題がないように見えるが、欠陥もあったと指摘する。「それは、Utopistには必然かも知れぬが、展開の政治的側面には、総じて注目しなかった。彼は、彼の実験がその点では有用でありながら、Societyの支配層が強く支持していた<所有権>に手をつけない限り、実験の段階からは抜け出られないこと。また、彼が最高に寛大かつ善良な人間として、その全生涯をその実現のために捧げた<社会主義>に長期的に到達するについて、この体制のもとで必然的に存在する階級対立を見逃したこと、である」と批判することを忘れなかった。
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by kenjitomorris | 2008-02-06 21:22



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賢治とモリス<研究ノート>
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