<   2008年 01月 ( 4 )   > この月の画像一覧
賢治のユートピア「イーハトヴ」
<研究ノート>
 賢治のイーハトヴは、彼の得意な造語地名だ。実に特異な造語だが、特異なるがゆえに記憶にインプットされて消えない。天才的な造語の魔術だ。彼のイーハトヴ童話、『注文の多い料理店』の広告チラシに、自ら「イーハトヴは一つの地名である」「ドリームランドとしての日本岩手県である」と説明している。無論、岩手県内にそんな地名はない。賢治らしく教訓的に、ドリームランドの理想の世界を画いた童話の舞台なのだ。
 イーハトヴという片仮名の洒落た造語の由来については、賢治はとくに何も説明していない。説明がないので、かえって未知の魅力が生ずるかもしれないが、色々の説が出ている。愛用の原 子朗『新宮沢賢治語彙辞典』によると諸説あり、竹下数馬氏の推定だと、独語で「Ich weitz nicht wo」、英語だと「I don’t know where」からだそうだ。さらに、それは『荘子』に出てくる「無何有の郷」であり、楽土、理想卿、パラダイスから、賢治が思い付いた、ということだ。
 もしそうだと、モリスの『ユートピア便り』 ”News from Nowhere”との関連も想定されてくる。そのことは、拙著『賢治とモリスの環境芸術』(169ページ参照)に指摘しておいたが、さらに以下の点も考慮すべきだろう。それは、もしも『荘子』の「無何有の郷」に関連するならば、モリスの『ユートピア便り』の堺による抄訳『理想郷』の後、1925年(大14)布施延雄『無何有卿だより』、1929年(昭4)村上勇三『無何有卿通信記』として全訳が刊行された。賢治は、堺の抄訳だけでなく、布施の全訳を読んだ可能性もあるし、そこからモリスの”News from Nowhere”、そして日本岩手県を念頭に置いた造語イーハトヴが生まれた、という推測が成り立つのではなかろうか。
 賢治のイーハトヴは、1923年(大12)の終わりの詩「イーハトヴの氷霧」頃からで、翌24年に『注文の多い料理店』が出版されている。布施の『無何有卿だより』の出版は25年だが、堺の『理想郷』の再版が1920年(大9)に出た頃、井 節三『ユートピア物語』、小泉信三『社会組織の経済理論的批評』などでは、モリスのユートピア思想がしきりに紹介され、しかも「無何有郷見聞記」「無何有郷消息」などと表現されている。だから、とくにモリスのユートピアは、『荘子』の「無何有郷」というタームによって紹介され、議論されていたわけだ。そして布施や村上の全訳も、『無何有郷だより』の題名で訳出されたのだ。
 要するに、モリスの『ユートピア便り』の日本への移入から言うと、”News from Nowhere”が、「理想郷」から「無何有郷」になった。賢治のサイドからすると、「イーハトヴ」は”Ich weitz nicht wo”から「無何有郷」につながり、両サイドが「無何有郷」を接点にして繋がることになる。そして、賢治のイーハトヴが「無何有郷」から造語されたなら、さらに賢治は「農民芸術概論綱要」より以前に、つまり1923-4年の時点でモリスの『理想郷』、布施延雄の全訳『無何有郷だより』 を読んでいたことになる。
 こうした推測は、拙論へのコメントとして、伊藤博美氏から提起されているが(拙著153頁参照)、その推測をさらに裏付けることになるだろう。また賢治研究としても、モリスの芸術思想の賢治への影響、賢治のモリス思想の受容は、すでに『注文の多い料理店』の頃からになるだろう。当時の大正デモクラシーの高まりの中で、モリスの芸術・社会思想への関心が高まり、それを賢治が全身で受け止めようとしていた状況が浮かび上がる。賢治の「イーハトヴ」も、「羅須地人協会」の活動も、モリスの思想が深く通底しているのではないか。
[PR]
by kenjitomorris | 2008-01-30 14:22
空想か、ユートピアか
<研究ノート>
 モリスは、パリ・コンミューンに続いて、第13章では「The Utopist」として、R・オーエンなどを取り上げている。その検討の前に、ここで少し足踏みをさせてもらい、いわゆる「空想的社会主義」について、文義詮索的な議論にお付き合い頂きたい。内容的には、あまり意味のない話になるかも知れないが、気になるのでお許しを願う。
 わが国では、マルクス、エンゲルス、それにレーニンなどの「科学的社会主義」に対して、オーエン、サン・シモン、フーリエなどを「空想的社会主義」としている。辞典や教科書の説明でも、ほとんど「空想的社会主義」になっている。エンゲルスの著作『空想から科学へ』も、これまで「空想」としたまま検討してきたが、正確には『ユートピアから科学への社会主義の発展』(Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft)である。最初に公刊されたフランス語版も、Socialisme utopiqueである。これが日本語では、「空想から科学」となり、明らかに訳語の問題として、「ユートピア」が「空想」と訳されてきたのであろう。
 辞書で調べる限り、たしかにUtopia,Utopianには、「空想的」という訳語もあり、空想的社会主義も語学的には誤りではないだろう。しかし、「空想的」には夢(Dream)とか、幻(Fancy)に類する、非現実的なニュアンスが非常に強い。現実にはありえない、夢物語とか、幻想の世界となる。とくに「科学的社会主義」に対比して、空想的社会主義となれば、資本主義社会を観念的、感情的、道徳的に反発する、単なるイデオロギーと誤解されることに成りかねない。そしてまた、そのように感情的反発のイデオロギーとして、とくに日本では、空想的社会主義が紹介され、解説されてきたのだ。
 しかし、モリスがUtopistと考えているのは、単に資本主義社会に反発する観念的、感情的な想念ではないし、彼も夢想家や幻想家ではない。社会改革の目的と内容を明らかにして、読者にアッピールすることなのだ。だから、日本で最初にモリスの『ユートピア便り』が、堺利彦の手により抄訳された時、題名を『理想郷』にしたのも、それなりの理由があってのことだと思う。理想であれば、夢想や幻想とは違う。現実を変革、改革し理想を実現する意味になるであろう。
 そもそも『ユートピア便り』の原題は、”News from Nowhere”だった。モリスは今現在、何処にもないけれど、21世紀の初め、ロンドンからコッツウオールズへの船旅で行く場所、しかも書物の扉絵には、ちゃんと彼のケルムスコッツのマナーの玄関、スタンダード仕立てのバラまで書いてある。そして、そのバラが21世紀の今日、地域の人々のガーデニングの手入れで、100年以上も育てられ続けてきている。夢でも、幻でもない。「世界で一番美しい村」なのだ。
 きっとモリスは、「世界で一番美しい村」も、まだ自分の理想の実現ではない、完成ではないと言うだろう。しかし、ユートピアは空想ではない。実現されるべきものだ。彼の生きた19世紀の工業化の資本主義社会、それを改革して理想を実現する、あるいは実現される、その新しい現実こそユートピアだった。それがまた社会主義であり、科学的であろうと、何と形容されようと、現実の資本主義を改革し、それに代替するオタナティブがユートピア、つまり社会主義は『理想卿』なのだ。その意味で堺利彦が『理想卿』としたのは良いと思う。
 題名の話になったが、とくに戦後『ユートピア便り』となり、それが定着している。モリスのUtopistが、そのまま題名となったわけだし、それはそれで良いと思う。ただ、大正期に布施延雄、村上勇三の両氏が、それぞれ『無可有郷---』として、全訳を出した。「此岸」に対して「彼岸」の意味だとすれば、モリスのユートピアの意味から少しズレるかも知れない。
 では、もともと社会主義が理想郷Utopiaだとして、「科学的社会主義」は、どう理解すれば良いのか?マルクス・エンゲルス、そしてレーニン主義が、教条的に科学的社会主義とされ、ロシア革命で現実のものとなった。それが1989年「ベルリンの壁」崩壊とともに、科学的社会主義の神話も崩壊した。同時に、ロシア革命の歴史的意義とともに、マルクス・エンゲルス、そしてレーニン主義の教条も破綻することになった。『ユートピアから科学へ』、その科学とは何か。科学的社会主義も再検討しなければなるまい。
[PR]
by kenjitomorris | 2008-01-24 21:52
W・モリスの「コンミューン」評価
<情報コーナー>
 賢治やモリスについて、展示会や研究会などの集まりが、全国各地で開かれているようです。出来るだけ出席したいのですが、なかなか思うようにいきません。仙台は地の利が好くありませんね。
 1)先日、東京・渋谷の東急本店で「究極の刺繍・ゴールドワークとビーズ展」と併せて、「ウイリアム・モリスの花々展」が開かれました。「賢治とモリスの館」の来館者の出展もあり、モリスのデザイン研究、さらに彼の未完のデザインの作品への応用で有名な英のべス・ラッセル女史の作品など観て来ました。女史のサイン入りの近刊書や若干のモリス・グッズを購入しました。春、館の再開の節に、是非ご覧に入れたいと思います。
 2)NPO法人「シニアのための市民ネットワーク仙台」の朗読グループ「注文の多い料理店」今年も5月に発表会を開催します。賢治の作品としては「鹿おどりのはじまり」を朗読します。すでに練習に入ります。日時など、近づいたらお知らせしますので、ご期待下さい。
a0063220_15473666.jpg
a0063220_15485564.jpga0063220_15493410.jpg







<研究ノート> 再びモリスに戻るが、その前にマルクス・エンゲルスのパリ・コンミューンの評価を検討したのは、他ならぬモリスの論稿が,マルクスの『内乱』の後、約10年以上も経った時点で書かれたからだ。モリスは、恐らくマルクスの力作『内乱』を読み、その評価を念頭に置きながら、みずからの見解を述べたものと思われる。さらにモリスは、『コモンウィール』13章では「The Utopists]として、オーエン、サン・シモン、フーリエなどを取り上げている。いわゆる空想的社会主義者の検討の後、14章以下でマルクスの学説、「科学的社会主義」を検討しているからだ。誠実なモリスの事である。『内乱』を読み、コンミューンへの影響の強かったUtopistsの検討を踏まえ、その上でマルクスの受容に踏み込んだに違いないと思う。 
 すでに紹介したが、普仏戦争の敗北による、ブルジョワ共和派の国防臨時政府については、モリスはティエールよりも、むしろ内相ガンベッタの役割を取り上げ、その二面性を批判していた。この共和制政府の二面性が、反って都市のプロレタリアートの盛り上がりを誘発した点を指摘していた。こうした中で、70年10月31日の事件が起こり、さらに71年3月18日のティエールによるパリの武装解除の失敗から、ついに内戦状態によるパリ・コンミューン成立を迎えたのだが、それについてモリスは、次のように述べている。
 コンミューンは、パリ市民の武装蜂起によるものだが、「中央委員会の大部分は、国際労働者協会・インターナショナルのメンバーにより構成されていた。それが特殊な権力を手中に収め、コンミューンが存続した間、ずっと維持されたのだ。彼らの立ち場は、プロレタリアの経済的自由に向けての方向付けとは別に、少なくとも先進的な地方自治主義がもたらされると期待され、急進派とも一致する純粋な連邦制への熱望に向かうものだった。
 運動が前進するにつれ、次第に明らかにされたのだが、ティエールへの抵抗やパリが分権的に独立することが成功すれば、社会主義者の影響がプロレタリアに及ぶに違いない。だからこそ、急進派も社会主義者と同盟をむすぶ方向に進むことになった。そうなれば、社会主義的要素も前面に出るようになり、明らかに社会主義の性質の制度も通過するようになると考えた。すでに契約の破棄や地代の廃止も含まれていたし、こうしたことが分権化、これがコンミューンの合言葉になっていたが、革命家の当初の行動からの進歩だったのだ。」
 モリスは、コンミューンの組織や機能、役割についての具体的な検討を省略している。総括的なまとめになっているだけだが、それだけに性格付けがハッキリしていると思う。
 繰り返しになるが要約しておくと、
 1)マルクスの影響力が増大していた、第1インターのメンバーが多数派を占める中央委員会だったこと。 
 2)中央委員会が、立法と行政の機能を統合した特殊な権力を、コンミューンの最後まで維持していたこと。
 3)いわゆる「プロ独」による中央集権型の権力奪取ではなく、地域に根ざした分権型の連邦主義だったこと。
 4)分権主義の拡大の中で、プロレタリアの影響力を強めながら、社会主義の拡大を図ろうとするものだったこと。
 モリスは、このように地方分権型の連邦主義によるコミュニティの復権として、パリ・コンミューンを評価していたわけだが、さらに国際連帯の側面も評価する。もともとコンミューンは、独・プロイセン軍のパリ包囲への抵抗運動の面が強かった。しかし、コンミューンの国際連帯への熱望は、「コンミューンの委員会やその軍隊の隊員での外国人の登場によって示されるに到った」のであり、その点では閉鎖的な古い封建的共同体の単なる復権ではない。その点に保守的な対外強硬派との違いである。
 こうしたモリスの評価にもかかわらず、パリ・コンミューンは政治的・軍事的に孤立し、最後的には虐殺の悲劇に終わった。しかし、マルクスの評価もそうだったが、コンミューンの実験は「あらゆる将来の革命と並ぶ記録を留めるものだったし、社会主義の発展に役立った」と総括している。しかもモリスによるパリ・コンミューンの評価では、例えば3月18日事件について、マルクスのような軍事的行動面での批判が差し控えられた。また、エンゲルスのようなブランキー派やプルードン主義へのイデオロギー的党派批判も、一切認められない。その点では、モリスがマルクスの『内乱』を読み、その上で慎重にコンミューンを評価したと推測することが出来るのではないかと思う。
 それ以上にモリスの論稿が重要なのは、コンミューンが軍事的・政治的に崩壊した、その後の状況の評価だろう。モリスは、コンミューン崩壊の時代的背景として、70年代のヨーロッパの経済的繁栄の事実を強調している。独の勝利と統一の実現、多額な賠償金の獲得、それにより「ブルジョワジーによる<近隣窮乏化>の楽しいゲームが動き出した。イングランドも、一挙に飛躍の絶頂期を迎えたし、----仏でさえ、略奪されたのと同じぐらいのスピードで回復した。」こうした経済的繁栄は、労働者をも完全に巻き込み、国際的連帯の絆を弱めることになったのだ。
 こうした経済的繁栄こそ、パリ市民のコンミューンを孤立させ、国際労働者教会の第1インターの分裂と運動の後退をもたらすことになった。社会主義の運動もまた、西欧の英仏からヨーロッパの後進地域である独や露に拡大し、新たな運動が展開されることになった。独では、社会主義へのビスマルクの弾圧が強まったが、それ以上に社民党の運動が拡大したのであり、「メンバーも公称65万人に達した」と、モリスも注目して書いている。
 とくに露についてモリスは、「ロシアでは、社会主義の運動も表面上は、国家主義者と共に政治的な煽動と混じりあいつつ、自ずから絶対主義的な野蛮な形式と一体化した。にもかかわらず政党の最終目標は明白に異なったし、プロパガンダも革命的情熱と純粋な献身を弾圧できなかった」と述べ、81年3月13日の皇帝アレクサンドル2世の暗殺事件を取り上げる。この事件で、「新しい革命の時代の幕開け」を迎え、革命勢力の結集が実現した。「獰猛な弾圧を心配する感情に対して、すべての人々の正直や好感への同調が強まり、さらに労働者が苦しむ制度の進んでいる国々では、より内面的な抑圧に対する考え方に進むことになったのだ。」
 このように、パリ・コンミューン以後のヨーロッパの動向を分析し、モリスは18世紀末の仏大革命から、19世紀末の歴史の転換を示唆しながら、次章に進んでいる。 
[PR]
by kenjitomorris | 2008-01-16 15:40
マルクス・エンゲルスの評価
<情報コーナー>
 皆さん、新年明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします。
 仙台、元旦から雪が降りました。市内の積雪は、大したことありませんが、郊外の作並は雪が降り積もっているようです。館は雪の中、静かに冬眠しています。
 唯一の心配は雪害です。しかし、今年は植木の職人さんが、雪囲いを確りしてありますから、大丈夫だろうと安心しております。
 休館中に、懸案の「館の便り」(仮称)の創刊号を出したいと思います。訪問者のリストも整理しましたので、皆さんのご期待に沿える内容にしたいと思います。ご協力ください。
<研究ノート>
 パリ・コンミューンの最後は、悲惨極まりないものとなった。1871年5月29日、日曜日の市民の油断を突いてパリに侵入した政府軍は、国民軍のコンミューン兵を、パリ最大の墓地ペール・ラシェーズに追い詰めた。この墓地には、バルザック、ユゴー、モジリアニ、ショパンなど、多くの有名人の墓がある。この墓の南の端の塀の前で、147人のコンミューン兵たちを、一人も残さずに銃殺したのだ。現在も、この塀は「連盟兵の壁」(Mur des Federes)として保存されている。しかし、パリ・コンミューンの事件と共に、この壁も忘れ去られようとしているらしい。
 このようにコンミューン戦士の勇敢な戦いで幕を閉じたパリ・コンミューンは、確かに歴史に残る事件だった。また、多くの教訓も残した。しかし、コンミューンそのものは、普仏戦争の敗戦、敗戦による混乱、パリ市民の政治的・軍事的な孤立による抵抗、などの特殊な条件から生まれた。しかも、パリという特殊な都市に発生しただけで、わずか2ヶ月の短期間の運動に過ぎなかった。フランス大革命などと比較すれば、積極的な評価よりも、むしろ敗北の教訓が大きかったのだ。  それだけにパリ・コンミューンの評価は、難しい課題だし、評価も複雑に分かれてくる。「教訓」を重視すれば積極的になるし、「結果」を重点に置けば消極的になる。
 モリスは、コンミューンについて、15年経過した1885年に書いている。かなりの時間的距離を置き、歴史的評価の射程を広く取りながら、冷静な評価を下そうとしている。評価の焦点もコンミューンそのものより、それに「続く大陸の動き」に当てられたのだ。独、露の社会主義運動に敗北の教訓が継承されていることを示唆する表題である。そこで順序として、すでにコンミューンの運動の渦中の時期から、「新しい形態の国家」など、一定の評価を試みていたマルクス、そして「プロレタリア独裁」のテーゼを提起していたエンゲルス、2人の見解をみておこう。
 マルクスは、第1インター・国際労働者協会の普仏戦争に対する第1回の呼びかけを1870年7月23日に、第2回の呼びかけを9月9日に出している。いずれも、組織としての呼びかけである。また、エンゲルスもロンドンの『ベル・メル・ガゼット』に戦況時評を連載し、いずれも事件の渦中に書かれ、発表されている。また組織的運動に直結した見解だが、マルクスは71年4-5月時点で、事件の総括的な意味で「国際労働者協会総評議会の呼びかけ」の形ではあったが、『フランスにおける内乱』を発表した。さらにまたエンゲルスも、マルクスの『内乱』の解説的序文を書いている。
  マルクスの『内乱』は、71年6月半ば、ロンドンで英語のパンフレットとして刊行された。だからモリスが、それを読んだ可能性はある。また、第1インターの呼びかけでもあり、エンゲルスのドイツ語版など、欧米各国でも広く翻訳されている。初めの2つの節では、もつぱら共和国政府の首班、さらに71-73年に大統領にもなったティエールに的を絞り、「パリ・コンミューンの死刑執行人」として痛烈に批判し、断罪している。ティエール批判を前面に押し出し、ボナパルティズムの崩壊、共和制の成立、そしてパリ・コンミューン成立の過程を活写する。ジャーナリスト・マルクスらしい力作だ。
 コンミューンの側に立って好意的に過程を書いたマルクスだが、ただ71年3月18日の政府軍によるパリの武装解除の失敗に関しては、パリ市民の国民軍の対応に批判的だった。「こんどはパリの中央委員会は、モンマルトルに対するティエールの夜盗ふうの襲撃で開始された内乱をつづけたくなかったあまりに、当時完全に無力だったヴェルサイユにただちに進撃し、ティエールとその田舎地主たちの陰謀の息の根を止めなかった点で、決定的な誤りを犯した。」この点は、マルクスだけでなく多くの人の批判があり、日本の研究者にもコンミューンの行動に「迅速な決断」が欠如していた点を批判する見解もある。
 ただ、軍事面に限っても、政府軍だけではなく、独軍も加わり、パリ市民は2重に包囲されていた。一時的、局地的な勝利はともかく、すでに普仏戦争に仏は敗北し、パリ市民は政治的にも孤立していた事からすれば、パリ側のヴェルサイユ進撃に最終的・全面的勝利の可能性は少なかったのではないか?また、「敗戦を内乱へ」「内乱を革命へ」の図式により、軍事的に権力奪取を実現しても、それはプロ独型の革命方式になるだけだろう。パリ・コンミューンの『宣言』の主張は、「パリの望む政治的統一とは、すべての地域的創意の自主的結合、共同の財産、万人の福祉、自由、安全を目的とする、個人の全エネルギーの自発的で自由な協力」であり、それに基礎を置く地域の分権、連合主義だった。プロ独の集権主義ではなかったのだ。
 マルクスも第3節では、労働者の役割を中心に置き、コンミューンの『宣言』を積極的に評価する。『宣言』は、プルードン主義者ピエール・ドニが作成したと言われているが、「社会的」共和制、地域の完全な分権・自治、連合主義の枠組みの下で、マルクスもコンミューンを「議会ふうの機関ではなく、同時に執行し立法する行動的機関」と定義している。さらにマルクスも、コンミューンの固有の権利として、予算編成権、吏員の任免権、基本的人権などの保障、さらに市民の不断の参加、そして「国民軍」の選挙制など、『宣言』の趣旨を強調する方向で評価している。そこには内容の強化・強調はあっても、批判は一切ない。
 それどころか、コンミューンという「まったく新しい歴史上の創造物が、それにいくらか似ているように見える古い社会生活の諸形態、ときにはすでに滅んでさえいる諸形態の写しと思い違いされることは、その通常の運命である」として、①中世コンミューンの再現、②小国家連邦への分解、③反中央集権化の運動、などの批判に回答する。マルクスの反批判の内容は、ボナパルティズムによる国家の肥大化への「寄生物」の除去、そして「コンミューンとはこの農村に対する支配を回復する試み」であり、制度として「農村の生産者をその地区の中心都市の知的な指導のもとにおき、都市の労働者という形で、彼らの利益の本来の受益者を彼らに確保してやった。」「コンミューンの存在それ自身が、当然のこととして、地方自治体の自由を含んでいた」と述べ、「コンミューンは、2つの最大の支出源―常備軍と官僚制度―を破壊することにより、ブルジョア革命の合言葉、安上がりの政府cheep governmentを実現した」と主張する。
 こうした点で、「コンミューンは共和制に、真に民主主義的な諸制度の基礎をあたえた」こと、「それは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態であった」と総括するのだ。さらにマルクスは、このコンミューンを基礎に「労働の解放」を考える。「労働が解放されれば、人はみな労働者になり、生産的労働は階級的属性ではなくなる。」協同組合的生産の連合体、さらに「土地と資本を、自由な協同労働の純然たる道具に変えることによって、個人的(個体的)所有を事実にしようと望んだ」と述べる。集権型の「社会的所有」ではない。コミュニティの復権として、「個人的(個体的)所有」が提起された点が重要だと思う。
 さらにマルクスは、パリ・コンミューンが「パリの中間階級の大多数―小店主、手工業者、商人―によって、公然と承認された最初の革命であった。」さらに、「コンミューンが農民に<コンミューンの勝利が諸君のただ一つの希望である>と告げたのは、完全に正しかった」とも述べ、それら中間層の積極的位置づけを図っているのだ。加えて、コンミューンの国際的連帯、財政政策、言論の自由、宗教や教会の役割、都市の安全と秩序など、コミュニティとしての新たな創造的発展の側面を指摘する。こうした指摘の中には、「プロレタリア独裁」に繋がるようなパリ・コンミューンの評価は認められない。また、マルクスは一言も「プロ独」とは述べていないのだ。
 『内乱』は第4節で、71年4月末から5月末のパリ・コンミューンの悲劇的最後までを書いている。政府軍に対する独軍・ビスマルクの圧力の強化、パリ市民の孤立の深まり、そしてティエールによる最後の裏切りと大虐殺の惨劇を、マルクスは怒りを込めて書いたのだ。そして、第1インター・「国際労働者協会」の労働者の国際連帯を訴えながら、「労働者のパリとそのコンミューンは、新社会の光栄ある先駆者として、永久にたたえられるであろう。その殉教者たちは、労働者階級の偉大な胸のうちに祭られている。歴史は、それを滅ぼした者どもを、すでに永遠の曝し台に釘づけにしている。彼らの司祭どもがどんなに祈っても、彼らを曝し台から救い出すことは出来ないであろう。」マルクスの弔辞の言葉だ。
 パリ・コンミューンは、「市民戦士」の大虐殺による軍事的敗北で終わった悲劇だ。軍事面に限れば、上記の3月18日事件や、さらに4月以降も「公安委員問題」など、反革命にたいしてパリ市民・国民軍の側に「寛大な雅量」が指摘できるかもしれない。しかし、マルクスの『内乱』は、ほんのわずかな批判的指摘だけに止め、むしろコンミューンの大きな「教訓」として、コミュニティの新たな創造的発展を積極的に評価しているのだ。マルクスの評価からは、軍事面から「戦争を内乱へ」「内乱を革命へ」、そして集権型の「プロレタリア独裁」の図式は出てこない。むしろ分権型の連合主義のコミュニティの創造的復権への期待だったのではなかろうか。
 しかし、エンゲルスは逆だった。「将軍」のニックネームよろしく、軍事面のマルクスの指摘を拡大解釈する。そして、ブランキ主義者やプルードン派へのイデオロギー的・党派的批判を強めながら、例えばパリ・コミューンの犯した経済面の失敗として、彼らがフランス銀行を接収しなかった点を批判する。「最も理解に苦しむのは、彼らがフランス銀行の戸口で恭しく立ち止まり、恐れはばかって手を触れなかったことである。これはまた重大な政治的誤りだった。」さらに、「コンミューンの経済上の政令については、そのほめるべき面も、ほめられない面も合わせて、まず第一にプルードン主義者に責任があり、そしてコンミューンの政治上の行動や怠慢についてはブランキ主義者に責任がある」と厳しく批判する。
 こうした批判は、マルクスが死んでから、1891年の『内乱』のドイツ語版への序文で行われた。マルクスが、この序文を読んだら、どう思うか?2人の間の立論の違いは大きい。エンゲルスは、この91年の序文の最後で、「ドイツの俗物は、近頃プロレタリアートの独裁という言葉を聞いて、またもや彼らにとってためになる恐怖に陥っている。よろしい、諸君、この独裁がどんなものかを諸君は知りたいのか?パリ・コンミューンを見たまえ。あれがプロレタりアートの独裁だったのだ。
 ロンドン、パリ・コンミューン20周年記念日に
 1891年3月18日                 F・エンゲルス 」
 これによりテーゼ化された「プロ独」が、さらにレーニンにより具体化され、ロシア革命に適用されたことは言うまでもない。    
   
[PR]
by kenjitomorris | 2008-01-02 21:03



賢治とモリスの館 - 最新情報
by kenjitomorris
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
外部リンク
カテゴリ
全体
未分類
以前の記事
2017年 05月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 08月
2016年 06月
2015年 12月
2015年 08月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 09月
2014年 07月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 04月
2013年 03月
2012年 12月
2012年 09月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 05月
2011年 03月
2010年 12月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
2006年 02月
2006年 01月
2005年 12月
2005年 11月
フォロー中のブログ
賢治とモリス<研究ノート>
検索
記事ランキング
その他のジャンル
ファン
ブログジャンル
画像一覧