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賢治とモリス・その現代的意義(続き)
<研究ノート>
 戦後民主主義によって、思想の自由は回復した。モリスの文学作品は無論のこと、それ以上にモリスの工芸作品が日本にも広く迎え入れられることになった。「近代デザイナーの父」といった高い評価であり、壁紙、カーテン生地、ステインドグラスなど、建築に対するモリスのいう「小芸術」の作品である。モリスの芸術思想・社会思想の特質が「生活の芸術化」であり、「芸術社会主義」を特徴としていた点から見れば、日本の消費者、特に女性消費者の心を、彼の思想がしっかり掴んだことになる。
 1996年(平8)は、モリス没後100年であり、また同時に賢治生誕100年でもあった。ロンドンの「ヴィクトリア&アルバート美術館」は、モリス所縁の工芸美術作品の収集で有名だし、とくにモリスたちが建設時「グリーン・ダイニング・ルーム」を館内に設計デザインしたことで知られている。ここで、モリスの生涯の全作品に近い500点余りの作品・資料が展示され、盛大に「モリス没後百年展」が開催された。『ユートピア便り』の著者が、この百年展を夢幻の理想郷への現実の接近と見たか否か?
 まさかモリスも、夢想だにしなかったであろう。モリス百年展がロンドンに続いて、世界で2番目に開かれたのが日本だった。東京の近代美術館で開催され、ロンドンに劣らぬほどの鑑賞希望者の長蛇の列ができたのを覚えている。京都や名古屋など、規模は縮小されたものの、モリス展は各地で開かれている。その後も「モリス展」は何度も各地で開かれ、いずれも成功を収めていると聞くが、いずれにせよ日本におけるモリス・ファンの層は厚く、広がっている。最近では、イングリッシュ・ガーデニングのブームもあり、「世界一美しい村」英コッツウォルズ地方への観光とも結びつきながら、モリスのファンはさらに拡大しているように見える。
 こうした戦後民主主義、その後の日本のモリス・ファン拡大の方向は、社会思想や文学などよりも、むしろ工芸美術の方面にあるといえよう。その点、すでに紹介した大正デモクラシーを背景とするモリスの受容とは、著しく違ってしまったことになる。当時は「日本に於いてはモリスの社会思想に関連した方面の紹介が最も盛んに行はれ」、文学も思想面での取り扱いが主流だった。ところが「工芸美術の方面で、この方面は最も盛んに行はるべくして、然も最も振るっていない事実」が指摘されていた。
 ところが、第2次大戦後は事態が逆転した。工芸美術作品への関心と評価の高まりは、ある意味でモリスへの関心が正常化したともいえる。逆に芸術思想・社会思想への関心、特に社会主義への関心は、大正デモクラシーの賢治の時代と比べたら、むしろ低下したと見るべきだろう。『ユートピア便り』は岩波文庫にも収められ、何種類も翻訳された。にもかかわらず、モリスの社会思想、社会主義は、関心の外に置かれたし、その結果ともいえるがモリスから賢治への流れに対しても、例えば室伏高信問題にみられるイデオロギー的歪曲の不幸が続いたのだ。
 賢治とモリスの研究にとっての不幸が終わるためには、もう一つの戦後が必要だった。つまりポスト冷戦、ソ連の崩壊とマルクス・レーニン主義の教条の破綻である。マルクス・レーニン主義の破綻は、そのイデオロギー的前提の上に成り立つたソ連型社会主義のドグマの崩壊、さらにはマルクスよりもエンゲルスの「イデオロギー的仮説」だった、いわゆる唯物史観の根本的再検討を迫るものだったからだ。エンゲルスから「空想的社会主義」として退けられたモリスの社会思想、共同体社会主義の復位が到来したと見るべきだろう。
 ポスト冷戦、ソ連崩壊とともに2点ほど、さらに付け加えるべき事情がある。
 第1は、ポスト冷戦に先立ち、欧米先進国を中心に、世界史の発展はポスト工業化を迎えた。モリスは、19世紀第一次産業革命の工業化の大量生産・大量消費を批判した。機械制大工業の単純労働の労働と人間疎外を批判し、ギルド的「アート&クラフト労働」の復権を求めた。生活の芸術化のための「小芸術」、環境保全や歴史建造物の保存の運動の先駆者でもあった。ポスト工業化による経済のソフト化・サービス化の新しい現実は、モリスの芸術思想・社会思想の復権を迫ることになる。モリス・ブームの背景にある歴史の流れではないか?
 第2は、ポスト工業化の経済のソフト化は、一方でIT化による情報革命の到来でもあった。IT革命が、ベルリンの壁を越えてグローバルな市場経済の拡大をもたらし、市場原理主義の競争至上の「構造改革」を加速させた。「格差社会」によりコミュニティは崩壊し、労働力再生産の基礎となる家庭・家族、さらに地域社会の崩壊を深刻化させている。モリスの社会思想の根底にあるのは、R・オーエン以来の共同体社会主義であり、今日のコミュニティ・ビジネス、社会的連帯企業の思想的基盤なのだ。
 われわれは今、ポスト冷戦、ソ連型社会主義の崩壊、ポスト工業化やコミュニティ復建という新しい現実から、モリスの思想、賢治の理想と実践の歴史的意義を捉え返さねばならないと思う。モリスは、国有化や計画化を主張した「国家社会主義」者べラミーを批判して『ユートピア便り』を書き「ハマースミス社会主義協会」を実践した。賢治は、レーニンのプロレタリア独裁を拒否して『農民芸術概論』を書き、羅須地人協会を実践して死んだ。2006年、2人の生と死から110年に当たる。
 モリスから賢治への流れは、次のように整理できないだろうか?
 1)人間労働の疎外を、真の芸術の回復によって、人間解放に向かう。
 2)芸術と技能を「生活芸術」として、地人の暮らしの喜びに高める。
 3)人間と自然の再生産を歴史と文化の基礎とする「環境芸術」、
 として集約され、21世紀に受け継がれようとしているのではないか?
  
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by kenjitomorris | 2007-01-14 20:02
賢治とモリス・その現代的意義
<研究ノート> 
 大正デモクラシーの時代的背景から、モリスの芸術思想、社会思想が、第1次大戦後、日本でも本格的に導入される時代を迎えた。賢治も、そうした時代環境の中で、モリスを継承しながら、『農民芸術論』を書き、羅須地人協会の活動を実践した。『農民芸術論』が、単なる目次だったこと。また、草稿にすぎない綱要にとどまっていたこと。さらに、「農民芸術の興隆」の部分だけのメモ・書き込みに過ぎなかったにしても、モリスの芸術思想・社会思想の継承であり、その発展として重要な意味を持っている。とくに農芸技術など、農業・農村問題への多角的な接近、また賢治の4次元の芸術論は、モリスにはまだ無かった視点だし、今日のデジタル・アートに発展する面が提起されたと思う。
 羅須地人協会の活動も、ほんの2年半ほどの短いものだった。しかし、花巻農学校からの教育実践の発展とすれば、決して短い活動で終わったわけではない。また、その事情は複雑のようなので、余り深入りしないが、協会活動が単純に挫折、失敗したわけではないと思う。当時の労農党など政治活動との関連で、警察権力からの弾圧を受け、活動にブレーキをかけられたことも大きいだろう。マルクス、エンゲルス、レーニンは無論のこと、モリス関連の著作ですら、堺利彦の『理想郷』にみられるように伏字を余儀なくされた時代なのだ。賢治が、周囲に迷惑の及ぶのを心配し、活動を余り目立たないよう配慮したり、健康状態の悪化も重なったと思うが、定期的活動を不定期に変えたりしながら、結果的に中断する形で終わったのではなかったか。挫折・失敗と断定するわけにはいかない。 
 賢治の遺言ともいえる、「雨にもマケズ、風にもマケズ-‐-」の死の床からの力強いメッセージは、仏教への信仰の力とともに、羅須地人協会の「地人芸術」の人間像の訴えではなかったのか。運動の挫折や絶望の呻きには聞こえない。明るく力強いユートピアンの声だ。そう受け止められれば、賢治の『農民芸術概論』と羅須地人協会の運動が、アジアの日本、とりわけ東北の花巻の地域特性を踏まえながら、モリスたち西欧先人の「アート&クラフト運動」の発展的継承として、地域実践されたことの意義は、まことに大きかったのではなかろうか。
 大正デモクラシーの時代は、周知のとうり昭和恐慌、つづく軍国主義による「冬の谷間」に、賢治の死とともに消え去った。モリスの思想の受容もまた、同じ運命を辿ることになった。第二次大戦下、「鬼畜米英」の大合唱によって、思想の流れは中断せざるをえなかったからだ。しかし、戦後民主主義による思想の自由の復活、そしてモリス研究や「アート&クラフト運動」の再開・継承を迎えることにはなったが、ここで戦前に振り返って確認しなければならない事情がある。
 それは、日本における社会主義運動の特異性に関連する。アジア的後進性ともいえるが、1917年(大6)ロシア革命は、日本にも大きな衝撃を与えた。その衝撃は、欧米と比べて社会主義の運動が遅れていただけに、革命思想が相対化される余地なく絶対視された。ロシア革命を思想的に支えた、いわゆるマルクス・レーニン主義が、社会主義の正統の地位を独占することになった。生産手段の国有化による集権型計画経済のソ連モデルだけが、「科学r的社会主義」の名の下に教条的に支配した。モリスなどの共同体を基礎とした西欧の社会主義思想などは、非科学的な空想的社会主義、さらに異端の思想として排撃されることになった。広く欧米の社会主義思想の流れも、「社会民主主義」として異端視され、全面的に排除されることになった。
 同じマルクス主義の内部でさえ、ソ連型社会主義の総本山となったクレムリン、その国際組織コミンテルンの指令に従って、厳しい思想的・政治的粛正が進められた。そうした中で、日本でもいわゆる講座派・労農派の思想的対立と激烈な論争が繰り広げられた。このような社会主義の思想状況の中では、モリスの芸術思想・社会思想の受容も、極端に異常な形で異端視されることになった事情を見落とすべきではない。アジア的、ないし日本的後進性によるイデオロギー的歪曲である。
 当時のモリス関連文献を見ても、堺利彦などの例外を除いて、非マルクス主義ないしはマルクス批判家、さらにはボルシェビキ・ロシア革命への批判派の論客が殆どである。マルクスとモリスの関係、モリスの社会主義思想の地位からすれば、まさに異常ともいえる日本的思想潮流が形成されていたことが分かる。戦前の室伏高信もその一人だったが、その間の賢治の立場にも、この異常なイデオロギー的歪曲が影を落としたことを否定できない。こうした思想状況の下で、モリスから賢治への思想的継承・発展も実践されたのだ。『農民芸術概論』を巡ってのモリス・賢治問題が生じたし、羅須地人協会の活動への評価にも、このイデオロギー的歪曲が影響しているのではないか?モリス研究にとっても、賢治研究にとっても、まことに不幸だったという他あるまい。
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by kenjitomorris | 2007-01-12 13:52
日本でのモリスの翻訳、賢治への影響
<研究ノート>
 モリスの代表作の一つが『ユートピア便り』であり、堺利彦の抄訳『理想郷』のタイトルで1904年(明37)に出版された。モリスの死後8年しか経っていない。詩集や文学書でなく、思想書が最初に翻訳されたのも興味深い。『理想郷』は、1920年(大9)に再版されたが、大正デモクラシーの高まりの中で、思想書のブームが訪れたことと深く関係するだろう。
 明治末は、幸徳秋水などの大逆事件もあり、思想弾圧が厳しく、思想的には冬の時代の逼塞状態が続いた。第一次大戦後、「戦後民主主義」とも言うべき大正デモクラシーが、思想の自由化をもたらした。その中で、モリスの芸術思想、社会思想も、あらためて日本に流れ込んだのである。堺の『理想郷』もそうした中で再版されたが、一部に伏字が入っている。モリスの思想ですら、すでに思想統制の網の中に入れられていたのだ。
 しかし、大正デモクラシーの高まりの中で、モリスの伝記、デザイン、詩集などとともに、むしろ芸術思想、社会思想が集中的に翻訳、紹介されることになった。「日本モリス文献」としては「社会思想方面の紹介が断然優勢で文学方面工芸美術の方面は甚だ寂寥たるものである」とされ、時期的には「大正年代の後半期に最も盛んに紹介された」。(「文献より見たる日本に於けるモリス」)まず、先述の堺による『理想郷』は抄訳だったが、全訳として布施延雄『無可有郷だより』(1925年大14)、続いて村上勇三『無可有郷通信記』(1929年昭4、世界大思想全集第50巻)も出版された。さらに、モリスの講演集も、この時期に集中的に翻訳紹介されている。
 モリスは、自らも社会主義者を自任するようになった1870年代末から、イギリス各地で講演している。「民衆の芸術」もその1つだが、まず1882年『芸術への希望と恐怖』、88年『変革のきざし』、死後1902年『建築・産業・富』の3つの論文集としてまとめられ、刊行されている。わが国でも、大正期に入って、次々に翻訳紹介された。主要なものは、ほとんど翻訳されたとみていい。時系列で追うと、次の通りだ。
 ①1922年(大11)佐藤清『モリス芸術論』――3つの論文集の主要なものが訳出。上述の    「民衆の芸術」「金権政治下の芸術」の2点も収められている。
 ②1923年(大12)大槻憲ニ『芸術の恐怖』――上記『芸術への希望と恐怖』の全訳、のち19   25年に『芸術のための希望と恐怖』として改題、改訳。
 ③1925年(大14)本間久雄『吾等如何に生くべきか』――上記『変革のきざし』のうち4点が    訳出。なお、1929年(昭4)に、社会思想全集第32巻に3点が転載。
 以上、賢治の『農民芸術概論』におけるモリスの受容、とくに芸術思想、社会思想に限定して、日本へのモリスの流れを追ってみた。賢治が花巻に戻り、花巻農学校から羅須地人協会で活動する背景に、大正デモクラシーの波の大きな高まりがあった。そこには、今日からみると想像できない位、モリスの芸術思想・社会思想の強い影響があり、賢治もまたモリスの思想を全身で受け止めようとしていた。そこに賢治の農民芸術、地人芸術の独自の構想が生まれたと見ることが出来るのではないか?モリスから賢治へ、その流れを抜きにして『農民芸術概論』、そして花巻・羅須地人協会の賢治の実践を語ることは出来ないだろう。
 
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by kenjitomorris | 2007-01-05 20:55
賢治によるモリスの継承:「民衆の芸術」
<情報コーナー>
 1)館の庭に、「イングリッシュ・コテージ」と並んで、同じ雰囲気の漆喰で塗り固めた可愛いコテージを設置しました。ガーデニングの道具入れの「物置」として使いますが、春の若葉に美しく映えると思います。
 2)12月14日午後、仙台市立松陵西小学校4年生76人、保護者約40名に賢治の「雨ニモマケズ」を朗読、「地人芸術」と人間像を話しました。賢治グッズを持参、森のミュージアムの出前授業でした。生徒は熱心、質問も出るし、感想文も沢山書いてくれました。大学の講義より楽しい授業でした。
 3)今年は雪が少ないのですが、昨年末で館は「休眠」に入りました。3月末、雪が解け始めてオープンします。宜しくお願いします。
<研究ノート>
 館の来訪者の質問もそうだが、賢治へのモリスの影響、とくにモリスの著作の何が賢治に影響したか?よく質問される。すでに指摘のとうり賢治の『農民芸術概論』、その「綱要」、とくに「農民芸術の興隆」の「書き込み」には、モリスの名前だけでなく、「芸術の回復は労働に於ける悦びの回復でなければならぬMorris ”Art is man’s expression of his joy in labour”」も引用されている。モリスからの影響は動かし難いことだし、さらに「書き込み」の農民芸術に対する賢治の考え方、とりわけ労働観は、モリスの考えそのものだと思う。
 ただ、『概論』は未発表のレジュメだし、モリスの名もメモ風の「書き込み」に出てくるだけだ。それ以上のことは、自らが墓場に入ってから、賢治に直接聞き質すほかない。あくまで状況証拠ともいえる資料を集めて判断することが必要だろう。伊藤与蔵さんの「聞き書き」も、そのひとつの証拠だが、それにより賢治がモリスそのものから、広く労働観を中心に農民芸術を羅須地人協会で講義していたことが、一層具体的に明らかになった。状況証拠をもう少し探してみたい。
 モリスは、1879年にバーミンガムの「芸術協会」「デザイン学校」で講演した。そのタイトルは、「民衆の芸術」The Art of the Peopleだった。
 その中で、モリスはイギリスの村落の職人たちの手作りの仕事に触れながら、「毎日、槌は金敷の上に鳴り、ノミは樫の梁の上におどり、そこから何らかの美と独創の生まれない日はなかった。したがって、なんらかの人間の幸福のない日はなかった。
 ---この最後の言葉は、諸君にお話するためにここに私の来た目的の核心へと私をみちびく。私は諸君に誠心誠意、それについて考えていただきたい。」その上で、次のように述べる。
 「私の理解する真の芸術とは、人間が労働に対する喜びを表現することである。その幸福を表現しなければ、人間は労働において幸福であることはできないとおもう。特に自分の得意とする仕事をしているときには、この感が甚だしい。このことは自然の最も親切な贈物である。」(中橋一夫訳)
 ここには、モリスの労働論、芸術思想、さらに環境芸術の考えが凝縮されて述べられている。そして、モリスからの賢治の引用は、「真の芸術とは、人間が労働に対する喜びを表現することである。」念のため英文も挙げておくと「real art is the expression by man of his pleasure in labour.」だ。少し字句に違いがあるが、表現はほとんど同じである。
 モリスの同じような意味と表現は、他にも出てくるもので、いわばキャッチフレーズになっていたとも言える。1884年、マルクス『資本論』を初めて読んだあと、オックスフォードのユニヴァーシティ・カレッジで「芸術と民主主義」(のち「金権政治下の芸術」に改題)という有名な講演をした。この講演で、モリスは先輩のラスキンの前で、自ら社会主義者であることを公言した。そして、労働と芸術の関連を述べ、ラスキンの所説を要約しながら「芸術の回復は、労働の於ける悦びの回復でなければならぬ(Art is man’s expression of his joy in labour),若しこれがラスキン教授の直接の言葉でないとしても、少なくとも教授の芸術に於ける定義を体現したものである。これより重要な真理は、いまだかって述べられたことがない」と力説した。
 こうした講演が、ラスキンからモリスへの労働観、「労働の芸術化、芸術の労働化」として、かなり一般化していたのだ。たとえば、モリスの講演集などの翻訳もある本間久雄氏も、「ウィリアム・モリスは<芸術とは、吾々の労働の中に醸される快楽の表現である>と云ったが、実際至言である」(『生活の芸術化』)と紹介している。モリスの至言、名言として、かなり一般化して多くの論文に紹介されていた。
 なお、この「民衆の芸術」は、最初のモリスの講演集『芸術の希望と恐怖』に収められ、わが国でも1922年(大正11年)に翻訳紹介されている。さらに、モリス芸術論の代表的論稿として、翌年にも、別の訳者によっても訳出されたのだあり、戦後も1953年、上記の中橋訳として岩波文庫にも収められた。だから、モリスの芸術論としては、ごく普通に一般的なフレーズとして流布され、賢治も「書き込み」に引用したのであろう。また、「芸術と民主主義」も、「金権政治下の芸術」のタイトルで、同時に翻訳紹介された。
 ついでに触れておくが、室伏高信『文明の没落』でも、「ウヰリアム・モリスは芸術をもつて労働における喜びの表現―Art is man’s expression of his joy in labour-というた。」と引用している。賢治は、『文明の没落』を読み、引用もしていたから、このフレーズについては、室伏のものを使用したのかもしれない。しかし、室伏はアダム・スミスやW・ゴトヰンなど、労働と芸術についての諸説を多数引用紹介する中で、特に引用箇所の原典も指摘せずモリスの一句を挙げているだけだ。また、モリスの芸術論に特に立ち入っているわけでもない。
 いずれにしても賢治は、当時すでに翻訳紹介されていた「民衆の芸術」など、さらに堺利彦が紹介した『理想郷』なども広く参考にして、「農民芸術概論」を構想したものと思う。だから「農民芸術の興隆」の「書き込み」でも、さらに賢治は「労働はそれ自身に於て善なりとの信条」など、モリスの芸術論の内容に踏み込んでいる。「明らかに有用な目的 休息自らの創造」など、芸術と労働の関係が多角的に論じられているのだ。少なくとも「農民芸術概論、そして羅須地人協会の活動は、モリスの芸術思想・社会思想の影響が大きいと見るべきだろう。   
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by kenjitomorris | 2007-01-03 23:19



賢治とモリスの館 - 最新情報
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