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ヴィクトリアン・アンティークの展示
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 ご無沙汰しております。6月初め間質性肺炎で家内・大内芳子が突然死去し、その後始末など超多忙な日々を過ごしました。また、短期間でしたが「賢治とモリスの館」ご予約の申し込みをお断りせざるを得ないこともあり、大変失礼しました。そんな中、沢山の訪問客が続き、この場を借りて心よりお礼申し上げます。
 そんな訳で、一寸閉館も考えましたが、皆さんのご予約が続き、また家内の存続の遺志も強く、皆さんのご協力を得ながら、モリスの「ユートピア」、賢治の「イーハトヴ」の夢を、広瀬川の源流の地に求め続けることにしました。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

 ご存知とも思いますが、モリス研究を始めたのは、英オックスフォード大の教授からの示唆によるものでした。その教授は、モリス研究とともに、ヴィクトリアン・アンティークの収集家で、モリス関連のものを沢山集めておられた。それを見せられて、モリス研究をするなら、ついでにアンティーク収集も真似てみよう。当時、日本ではアンティーク・ブームでもあった。それ以来、夫婦協力のもと、30年以上に亘り収集してきました。その一部が「賢治とモリスの館」の並んでいます。それ以外は、自宅で楽しんできました。しかし、いま家内もいなくなり、遺品の整理とともにアンティークは、すべて作並の館に集め、ご来館の皆様とご一緒に楽しみ、また勉強しよう、そんな気持ちになりました。

 じつは今日、テレビで有名な「なんでも鑑定団」の西洋アンティーク部門の鑑定士、阿藤芳樹さんが作並の「館」に来館されました。もともと沢山の作品を、阿藤さんの紹介と鑑定のもとで集めてきました。そんな訳で、今回、新たに展示し、一般公開するに当たり、全作品をご覧頂き、改めて「鑑定」して頂いた次第です。専門家のお墨付きを貰い、今後も作品の説明や鑑定の結果などご協力を約束して、お別れしました。「館」の新しい出発について、皆さまのご理解とご協力を切望します。
 写真 アンティークと阿藤芳樹さん(左は渡辺えま)

 

 


 

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by kenjitomorris | 2017-09-10 19:33
モリスの「ソーシャルデザイン」
 皆さん、今年も春を迎え、「賢治とモリスの館」オープンしております。家族の入退院などで忙しく、ご報告が遅れてしまいました。庭のカタクリの群生、今年は少し遅れていましたが、例年通りのピンクの絨毯を庭一杯に敷き詰めてくれました。4月26日の写真で、ピークは過ぎてしまいましたが、今年の記録としてアップさせて頂きます。

 ご報告の遅れのもう一つの理由は、昨年から企画している「名取川・広瀬川水系」をモデルにした、自然エネルギーによる地域循環型社会の出版計画、その取りまとめが難航しているためです。この企画、デザイナーのモリスは、地域社会のデザイン、ソーシャルデザインの元祖だったし、アーツ&クラフツもソーシャルデザインを考えていたと思いますので、その着想を取り入れました。

 モリスのテキスタイルのデザインの中には、「テムズ川」の支流の名前を付けたデザインがあります。まさに「水系モデル」にもぴったりなので、ご紹介させて頂きます。モリスは地域計画の芸術家だったのですね
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by kenjitomorris | 2017-05-01 09:14
「賢治・秀松農民芸術祭」のご案内
 2017年1月21日、午後1時から仙台に隣接する名取市の文化会館で、第2回の賢治・農民芸術祭を、「賢治・秀松農民芸術祭」として開催します。文化会館は名取市役所のすぐ隣で、400名も収容できる立派な中ホールが会場です。宮沢賢治と高橋秀松、すでに本欄では説明しましたが、2人の関係をご存じない方が多いので、会場に「資料展示コーナー」を設け、ご案内のパネルをつくります。そのために書いた「ご挨拶文」を、あらかじめ皆さんに、ご覧頂こうと思います。ご一読の上、ぜひご参加ください。

 2016年は宮沢賢治生誕120年、100年記念に続く「賢治ブーム」になりました。その賢治と盛岡高等農林で一緒に学び、無二の親友だったのが、名取市増田出身の高橋秀松です。戦後は、地元の農業改革や農協活動に尽力され、行政面では増田町長、そして初代、二代の名取市長を務めました。
 賢治と並んで、国民的作家の夏目漱石には、親友の正岡子規がいました。賢治もまた、親友の秀松との交友を抜きに、彼の文学はじめ、その人生を語ることは出来ない。賢治精神も、秀松との強く、深い、そして熱い友情に育まれたのではないか?
 
 当時の盛岡高等農林は全寮制で、賢治と秀松は寮生、しかも同室で、寝食を共にしました。それだけではありません。天才的で少々変わり者だった賢治も、秀松だけには心を許し、日記や手紙も見せていました。休日は、二人仲良く盛岡市内を歩き、岩手山など山野を跋渉し、さらに江刺の地質調査にも同行しました。夏休みには、一ヵ月も上京して同じ旅館から神田神保町のドイツ語の講習会に通い勉強した。こんな深く静かに輝く友情は、それこそ賢治と秀松の二人だけのものでしょう。
 二人は、東北農民が最も恐れていた冷害を解決して、東北の暗い冬を無くそう、明るい東北農村のために勉強した。高等農林では、秀松は農学第一部で一般農学・農政経済、賢治は第二部の農芸化学が専攻でしたが、共通の目的のために、秀松は稲の品種改良、病害駆除、賢治は土壌、肥料の面から、江刺の地質調査にも参加しました。しかし、当時は就職難の時代、賢治は花巻の農学校へ、秀松は遠く水戸の農学校に別れ別れになった。その後、賢治は東北農村のイーハトヴを目指して花巻に羅須知人協会を開き、さらに「ポラーノの広場」に「産業組合青年部」の活動の夢を書き残して他界してしまった。
 「産業組合」は、戦前の協同組合の呼称で、今日の農協、漁協、生協などの総合統一体だった。終戦を前にして、秀松は名取に帰郷します。そして、地域の農協運動を指導し、農業改革を推進した。「日本農業の動向と名取町の農業振興について」論じ、集団的農業の重要性、そして新しい農業協同組合の意義を訴えています。とくに「農業そのものの基盤は耕地であり」「名取耕土の美田化土地改良事業」など、若き日の賢治との堅い約束を果たす事業だったと思います。そして、賢治の『農民芸術概論綱要』を説き、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と訴え続けました。
 
 今回の企画展では、賢治と秀松の深く「輝う友情」を中心に、二人の交友と秀松の戦後の業績に関する資料を集めました。何分にも残された資料が少なく、極めて不十分です。これから市民の皆さんのご協力のもと、とくに秀松に関する資料を中心に収集し、明るい東北の建設のために、賢治・秀松に続こうではありませんか。(大内 秀明)
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by kenjitomorris | 2016-12-29 15:53
神田錦町の「上州屋」の跡地を写す
 今回は、来年2017年1月21日(土)に仙台の隣、名取市文化会館で開催予定の『賢治・秀松農民芸術祭』に展示の写真収集が目的で、賢治と秀松が通った『東京独逸学院』の跡地を訪れました。さらに、神田・神保町のすぐ近くに、賢治が泊まった神田・錦町の「上州屋」の跡地があり、ついでにこちらの写真も撮ってきました。

 同じ東京でも、文京区本郷の菊坂の旧居は、すでに紹介したように教育委員会が立派な看板を用意して丁寧に説明していましたが、隣の神田区は何の表示もありません。奥田弘さんが調べた「宮沢賢治の東京における足跡」にある資料をたよりにカメラに収めました。賢治が泊まった当時は神田・錦町3丁目19番地だったのが、戦災などがあったからでしょう、現在は13番地に変更されています。また、素人下宿屋「上州屋」の面影も一切消失して、新しいビルだけが建っていました。ただ、ビルの反対側の表通りには、明治20年代に発足した正則学園高等学校、隣接して錦城学園高等学校があり、いずれも校舎を全面改築していますが、それでも歴史の落ち着きを感じさせます。

 賢治は、1916年(大5)に盛岡高等農林の修学旅行とドイツ語の講習の2回をはじめ、9回も上京していて、本郷・菊坂もそうですが、かなり長期の滞在でした。「上州屋」には、第7回目(1926年・大15)と第8回目(1928年・昭3)の2回宿泊、いずれも1か月近く泊まりました。この2回の宿泊は、賢治が花巻農学校を辞めて「羅須地人協会」を立ち上げて活動していた時期の上京です。「本物の百姓」を目指していたはずの賢治が、長期の上京でチェロを習い、図書館に通い、浮世絵を観賞し、芝居見物をしていた。「賢治は何を考えていたのだ」といった疑惑と批判の眼が向けられる上京です。

 しかし、「本物の百姓」は、ただ単に肉体的に汗して、牛馬のように働く「水のみ百姓」ではない。苦境に追い詰められた東北の農村経済を改革し、「芸術をもて、あの灰色の労働を燃やす」ための羅須地人協会だった。そのために3・15事件などに関連して、官憲に目をつけられ弾圧された。とくに第8回目の上京は、3・15事件の後、仙台で産業博覧会を視察し、その視察資料をもって伊豆大島に労農派の伊藤七雄を訪ね、大島農芸学校とともに、花巻の羅須地人協会の今後について相談し、その上で「上州屋」に長期滞在したのです。図書館に出掛け、芝居見物をしたとしても、賢治は羅須地人協会の活動の形を変えながら、父親や伊藤七雄とも相談の上、あのイーハトヴ空間、ポラーノの広場の「産業組合」など、新しい活動の準備を続けていたのではないか?そんな「上州屋」の賢治の姿を思い浮かべながらの写真です。
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by kenjitomorris | 2016-11-25 12:42
東京独逸学院で学んだ賢治と秀松
 11月22日、2011年の東日本大震災の余震らしいが、早朝から仙台では津波警報で大騒ぎ、新幹線も遅れたが、津波から避難するように上京、神田の学士会館に一泊しました。翌朝、神田の神保町にあった「東京独逸学院」の跡地を探して、メル友の平山君の協力を得ながら写真を撮りました。来年、2017年1月21日(土)、仙台市の隣の名取文化会館で開催の『賢治・秀松農民芸術祭』に展示する資料収集です。

 「東京独逸学院」ですが、宮沢賢治が盛岡高等農林2年生の1916年(大5)7月末から9月初旬まで、正確には7月30日から9月7日まで、1か月以上ですが、「独逸語夏期講習会」に受講するため通学した場所です。賢治にとっては二度目の上京で、麹町三丁目の栄屋旅館に宿泊して講習に通いました。その年の3月19日から31日まで、盛岡高等農林の修学旅行で初めて上京、西ヶ原試験場や駒場農科大学などを見学して、大きな刺激を受け、その年の夏休みを利用して東京でドイツ語の勉強をすることにしたのでしょう。

 この賢治のドイツ語の勉強に付き合ったのが、クラスメートで寮友の高橋秀松でした。しかも、盛岡の寮で同室、寝食を共にしていたからでしょう、高橋秀松と一緒に同じ栄屋旅館に泊まり、仲よく「講習会」に一緒に通い、日本を代表する「本屋街」の神保町の「東京独逸学院」で勉強したのです。東京での勉強だっただけに、盛岡での寮生活とは違った意味で、賢治と秀松の二人の間に、強い友情の絆が結ばれたことは想像に難くないと思います。賢治はニコライ堂、小石川植物園などを訪ね和歌を詠んでいますが、秀松も行動を共にしていたと思います。こんな手紙が残っています。

 御葉書拝見致しました。
 こちらに御出での間は色々御迷惑を掛けました御申し訳なく存じます。殊に御帰りの時は非常に急がせ申して済みませんでした。一般に見送りして行く者の方が見送られる人よりもつらい様でご在ます。あれから私は銀座を遅くまで歩きました。もう前の様に灯も私動かしません。即ち東京に飽きたのでございます。

 一足先に帰った秀松を見送った賢治は、一人で「銀ブラ」を楽しみながら、しかし「東京に飽きた」と言い、盛岡での秀松との生活に早く戻りたくなっているようです。ここにも賢治と秀松の交友の情が感じられます。

 写真は、「東京独逸学院」のあった現神田神保町2丁目24番地の表通りと裏道り、裏道りは落ち着いた喫茶店など昔の風情が残っている。
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by kenjitomorris | 2016-11-24 09:13
賢治の上京、本郷菊坂の旧居跡を訪ねる
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 9月29日、中国大使館主催の国慶節の祝賀で上京し、東大正門前のホテルに宿泊した。次の朝、友人を誘って、本郷菊坂にある宮沢賢治の旧居跡を訪ねてみた。

 宮沢賢治は、短い生涯だったが、たびたび上京している。佐藤竜一『宮沢賢治の東京』によれば、前後9回も上京し、滞在期間が長い上京もあった。本郷菊坂に下宿した期間も、1921年1月から8月まで半年以上に及び、そのため東京都文京区の教育委員会が、わざわざ写真にあるような立派な説明の看板を立てて呉れている。

 看板には「本郷菊坂町75番地稲垣方二階六畳に間借り」とあり、「菜食主義者で馬鈴薯と水の食事が多かった」とされ、東大赤門前の文信堂(現大学堂メガネ店)で筆耕や校正などで働き、日蓮宗(国柱会)の布教活動とともに、童話や詩を書いた。『注文の多い料理店』の中の「かしわばやしの夜」「どんぐりと山猫」なども執筆された。

 現在の旧居跡の住居表示は、文京区本郷4-35-4(上記、佐藤氏の著作では4-35-5とされている)であるが、この周囲には樋口一葉旧居跡、坪内逍遥旧居・常磐会跡など、たくさんの文学関連の遺跡がある。ちょっとした午前の「文学散歩」だったが、ただ東京の都心とはいえ、決して高級な住宅街ではない。全く逆で古い木造住宅も残り、そこに布団や洗濯物が道路に乗り出すように干されていて、貧民窟に近い。掲示板にも、共産党のポスターなどが目立ち、東北の花巻から飛び込んだ賢治の暮らしを想像しながら歩いた。

 じつは1953年から仙台に移った1962年まで、約10年間、文京区本郷1町目に住んでいた。毎日、赤門まで通学の途中、すぐ近くを通り過ぎていたのだ。その頃は、宮沢賢治の研究とは関係なく、全くの無関心で過ごしてしまった。しかし、自炊生活をしていて、行きかえりに買い物に立ち寄った魚屋、八百屋など、ほとんど皆コンビニに変わってしまつたが、町の佇まいは余り変わらない。東北の花巻の賢治、東京の本郷の賢治、賢治の文学も芸術も思想も、二人の賢治の葛藤だったのではないか?写真、上から一葉の旧居跡、賢治の掲示版、菊坂の路地裏

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by kenjitomorris | 2016-10-02 16:04
高橋慶吾について
 今日、8月17日、台風7号が仙台を直撃、避難準備情報も出たので、外出は控えました。結果は大したことなしで、台風は去りましたが、ちょうどタイミングよく、注文していた雑賀信行『宮沢賢治とクリスチャン 花巻篇』が届き、眼を通しました。

 期待が外れたのは、表題から宮沢賢治と盛岡高等農林の親友・高橋秀松の関係が取り上げられていると思いましたが、完全な空振りでした。もっぱら花巻の関係の話題で、著者によれば続編として「盛岡篇」が準備されているそうで、そちらを期待することになりました。学生時代、盛岡中学から盛岡に在住していた賢治が、クリスチャンになった仙台に隣接の名取出身の秀松をガイドした。盛岡の教会を案内した話が出てきて、それが二人の友情にいかに結びつき、日蓮宗の賢治の作品にキリスト教の影響を与えたか?今は、それを知りたいばかりにアマゾンに注文したのです。

 ただ、本は読んでみるものです。第二章に「4 高瀬露と高橋慶吾」があり、慶吾について取り上げてあったからです。高瀬露は、羅須地人協会の紅一点、賢治に好意を寄せた女性として有名です。露は熱心なクリスチャンで、彼女を協会に案内し、賢治に紹介したのが慶吾だった。慶吾も一時、キリスト教の教会に出入りしていて、写真も掲載されています。そんなことで協会員だった慶吾に、露が頼んで賢治に近づいたようです。しかし、露と違って慶吾は入信しないで、むしろ当時の花巻で拡大していた「労農党」の活動に川村尚三などともに入った。また、賢治との関係もあり、共済組合の活動もしていた。それに関連して、賢治が「社会事業の能力は当分の小生には全く無之」という手紙を慶吾に書き、羅須地人協会の活動の整理を伝えたようです。

 このように高橋慶吾との関連で、当時の羅須地人協会の活動、いわゆる労農党(労農大衆党)の動き、それらとの関連で花巻におけるクリスチャンの動きなどが紹介され、興味深く読みました。ただ、高橋慶吾の扱いは、彼がクリスチャンにならなかった点が大きいのでしょうが、「新しい集まりがあるとすぐ首を突っ込むタイプだったのかもしれない」とか、「この高橋が、賢治と露との間をかき回すトリックスターのような役割を演じるのだ」とまで書いています。賢治と露との「色恋」には、あまり興味がないので深入りは御免蒙ります。
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by kenjitomorris | 2016-08-17 18:28
労農派と宮沢賢治(続き)
 労農派と宮沢賢治の関係は、もともと労農派と呼ばれる活動が幅広く多面的だったし、当時の政治状況から屈折したり曲折していて複雑を極めていた。さらに、賢治は単なるシンパサイザーとして活動に協力していただけだった。それだけに、賢治の立ち位置を明確にすることは困難だし、また無理に明確にすることが、賢治像をイデオロギーで歪めかねないように思います。そん心配をしながら、羅須地人協会時代の賢治の実像に少しでも迫りたいと思っているのです。

 前回の本欄で、小正路さんの新著『堺利彦ー初期社会主義の思想圏』を紹介しましたが、その後とても有益なご助言、ご指摘など頂きました。その一部を紹介させて頂きながら、賢治と労農派について少し補足しておきましょう。

 大正デモクラシーが高揚する中で、単一の合法的無産政党を目指していた「労働農民党」でしたが、1928(昭3)年の3・15事件に引き続いて、4月22日に結社禁止の弾圧を受けました。ただ、その前から中央では、「日本労農党」「社会民衆党」「日本農民党」に分裂、抗争していた。こうした分裂状態が、ロシア革命によるコミンテルンからの地下非合法活動の影響もあり、3・15の弾圧を招いたといえます。そうした厳しい情勢の下で、賢治による労農派への支援、協力の活動だったことは重要です。また、中央の組織分裂に対して、地方ではいわゆる「地方政党」が群立していて、岩手においても農民運動の動きも加わり、地方政党の活動が活発だったし、中央との複雑な対立も拡がっていたようです。
 こうした地方政党の群立の動きの全貌を明らかにするのは、今日では極めて困難だと思います。しかし、賢治が羅須地人協会の伊藤与蔵さんなどとともに、選挙運動に関わった泉国三郎の「労農大衆党」もまた、恐らく中央の複雑な動きをを見据えながらの地方政党の一つではなかったかと思います。とくに岩手の無産政党を目指す運動は活発で、中央からのいろいろな働き掛けもあった。賢治との人的なつながりでは、伊豆大島の「農芸学校」の伊藤七雄との関係がとくに深かったし、政治活動の面では浅沼稲次郎との関係もあった。小正路さんからは、こんな助言も頂きました。
 「労農派は労農党の勢力の離散防止のため無産大衆党、兵庫県大衆党、秋田労農党、信州大衆党、関西大衆党など将来的な単一無産政党樹立に向けた過渡的な地方政党を結党しました。これらの労農派系地方政党ときわめて類似した性格を持っていたのが1928年12月22日に結党した岩手無産党です。<中略>従いまして、泉国三郎をキーパーソンとして考えますならば、賢治が連帯した政治勢力は岩手無産党系譜の大衆党系労農派ではないでしょうか。<労農大衆党>という言い方が同時代にあったかどうか存じませんが、<労農大衆党>の実態は岩手無産党であったと思います。」

 今回、こうした助言や示唆を頂き、これからさらに岩手の関係者とも連絡し、出来るだけ実像に迫ろうと思います。ただ、こうした政治勢力の分裂による混乱の中で、羅須地人協会の若いメンバーを抱えた賢治の苦労は、極めて大きく深いものだったと思います。3・15事件の弾圧の後、賢治が6月に伊豆大島に伊藤七雄を訪ねたのも、大島の農芸学校の設立の相談だけではなかった。恐らくは労農派の分裂などの混乱について、折り入って相談したのではなかったか?その上で、政治活動の混乱の渦中から身を引いて、羅須地人協会の活動を立て直す必要に迫られたのではないか?さらに、恐らく党員として協会のメンバーだった高橋慶吾氏宛の書簡が残されていますが、そこでは一方で「農業生産の増殖」という肥料設計や土壌改良の活動、他方では政治活動を含む「社会事業」の「二兎を追て果して一兎を得べきや覚束なき次第」と述べています。
 ここでは社会事業としての政治活動への協力を整理する意味が込められているように読めます?農業生産活動と政治参加の活動の「二兎を追うものは一兎も得ず」と熟慮したうえでの賢治の決断だった。だから、政治活動とみなされる羅須地人協会の「集会活動」を止めたのではないか。にもかかわらず肥料設計や花壇設計などの農業生産活動、そして協同組合である「産業組合」の活動への夢、「ポラーノの広場」の「イーハトヴォ」の夢は追い続けたのではないか?
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by kenjitomorris | 2016-08-09 13:08
労農派と宮沢賢治―堺利彦との接点―
 賢治生誕120年に先立ち、昨2015年8月に鈴木貞美『宮沢賢治 氾濫する生命』(左右社刊)が公刊されました。「人間文化研究機構」の関係者の著作だけに、賢治精神の多様性、複雑性を描き切っていて、大変興味深く拝読しています。「賢治、百面相」「万華鏡の彼方へ」など、とても真似ができない手際で、賢治の作品を論じています。その中で「イーハトヴの歩き方」、とくに「賢治と社会主義思想」については、筆者と関係の深い論点だけに、気の付いた点を挙げておきたいと思います。
 とはいえ、「賢治研究」(宮沢賢治研究会)128号で、すでに<「労農党」のこと>として、研究の先輩である栗原 敦さんが、一方で「鈴木貞美の労作」として評価されつつ、賢治と労農党との関連について、若干の論点を提起されています。まず「鈴木の著書では、後の日本社会党につながる流れや、アナーキズム系をも含む広がりの中に置いて広く捉えようと試みています。実際、伊豆の大島で農芸学校を開設する伊藤七雄(賢治は昭和三年に七雄・チエ兄妹の下を訪ねています)は浅沼稲次郎との交流があったのですし、賢治の農民運動各派に対する幅広い関わりを想定する意味では妥当な見方だと思います。」と評価されています。この栗原氏の評価には賛成で、賢治の思想的な立場は、詩作の同人「銅鑼」に見られるとおり、草野心平や辻潤などアナーキストからの高い評価と人的な関係も深かった。しかし、羅須地人協会などの社会的活動では、いわゆる労農派とのつながりが深かった点が重要でしょう。

 ここで労農派と書きましたが、一般に労農派というのは講座派との対立で、当時の日本資本主義や革命の性格をめぐる学者研究者の学術的な論争で、講座派は岩波書店の「日本資本主義発達史講座」に結集した学者たちで当時の日本共産党の理論的なグループが中心だった。労農派は、共産党やコミンテルンの方針から自立し、独自の研究や運動を進めていましたが、①講座派と対立した学者グループ、②労働組合や農民組合など多様な社会運動の大衆団体、③いわゆる労農党と称する政党組織、以上3つに大別できるようです。いずれも雑誌『労農』の影響を受けていた点で、労農派と呼ばれていたのです。さらに共産党が非合法の地下組織で鉄の規律による前衛党の活動だったのと違い、いわゆる労農党を含めて合法的な大衆組織の運動だった。
 賢治の羅須地人協会も、その名称が賢治流の特異な表現ではありますが、官制の学校ではない「自由学校」で農民学校、農芸学校だった。分類上は②ですが、各地に自立した労働学校や農民学校があり、賢治の羅須地人協会も後輩の松田甚次郎「最上協働村塾」、伊豆大島の伊藤七雄の大島「農芸学校」、さらに賢治と一時同居した千葉 恭の水沢「研郷塾」などとのネットワークが形成されつつあった。そうした活動が羅須地人協会への官憲の弾圧を招きましたが、稲作や土壌改良の農民指導は続けていたようです。そして、賢治は「労農党のシンパ」として、政党の活動にも積極的だった。その点について、鈴木貞美氏の著作でも詳しく触れ、さらに栗原氏のコメントも出ているわけです。
 そこで③の当時の政党組織ですが、地下組織の共産党の加入戦術の影響もあったのでしょうが、複雑な利害や党派の対立で四分五裂の状態でした。賢治が花巻で、どの党派に協力していたのか?鈴木氏は著書で「日本労農党稗和支部」とされていますが、栗原氏は「誤解を招く書き方」とされ、「新校本全集」を使い整理されたうえで、<「労農党稗和支部」でなければならない>と注意されています。諸派分裂の中だけに、賢治の立ち位置を明確にする必要があるでしょう。

 その上で、じつは伊藤与蔵「賢治聞書」(『賢治とモリスの環境芸術』所収)の中で、賢治の労農党の選挙や演説会への協力の話に関連し、当時の泉国三郎の政見発表の演説会のポスターの写真を載せました。そこでは「労農大衆党公認候補」と書いてあり、泉国三郎は労農大衆党の稗和支部長だった。ですから、賢治が当時シンパとして協力していたのは、日本労農党でもないし、労農党でもない。労農大衆党だったと思います。そして、労農大衆党として、上記の伊藤七雄や浅沼稲次郎との関係があったのではないかと思うのです。
 さらに興味深い点があります。ごく最近ですが、小正路淑泰編著『堺利彦ー初期社会主義の思想圏』(論創社刊、写真参照)という大著が刊行されました。その中で編者が、第14章「堺利彦農民労働学校―校舎建設運動を中心に」を書き、その建設運動の開始について設置者が「全国労農大衆党京築支部」とされ、発起人としては上記①、②、③の錚々たる顔ぶれが並びます。開校は1931年2月11日、場所は堺利彦の郷里である福岡県京都郡行橋町で、堺は興奮気味に「明日の朝を以て、私は実に、この故郷に迎へられるのである。生まれて初めての<校長>といふ身分を以て、この故郷に<錦を飾る>のである。私の<錦>は可なり毛の抜けた背広と、くの字なりのズボンとに過ぎないが‐‐‐」と書いている。
 しかし、校舎上棟式の翌日、堺は東京で脳溢血で倒れる。それに先立つ31年9月には満州事変が勃発、労農大衆党も堺を議長とする本部会義を開催、鈴木茂三郎の起草した戦争反対の声明文を発表していた。同時に反対闘争委員会を設置、委員長が堺利彦、行動部主任に浅沼稲次郎、調査部主任に鈴木茂三郎の名前が見えます。労農派の「総監督」と言われた堺、それに浅沼稲次郎、そして水沢出身の伊藤七雄、それに宮沢賢治の点と線がここで結ばれてくる。賢治の羅須地人協会と当時の労農大衆党のシンパとしての活動のつながりが浮かび上がって来ます。そして、1933年1月23日、堺が「棄石埋草」の生涯を閉じ、それを追いかけるように9月21日に賢治も「雨ニモマケズ」を残して他界しました。

 もう一点付け加えましょう。堺利彦と言えば、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』の抄訳を、『理想郷』のタイトルで1903年に日本で初めて平民社から発刊しました。日本におけるモリスの紹介の大先達であり、マルクス―モリスの西欧社会主義の日本における正統的な継承者と言えるでしょう。宮沢賢治もまた、「農民芸術概論綱要」を中心に、モリスの農民芸術の思想を位置づけ、羅須地人協会で講義し実践しようとした。さらに堺もまた、人生の最後を九州の地で農民労働学校を立ち上げていたのです。賢治と堺利彦が、とても近く感じていますが、「賢治とモリスの館」には堺の『理想郷』、また望郷の和歌「今もなほ 蕨生ふるや茸いづや わが故郷の痩せ松原に とし彦」の真筆の掛け軸もあります。ご覧ください。
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by kenjitomorris | 2016-06-04 15:41
宮沢賢治と高橋秀松:「産業組合」を巡って
 2016年、ちょうど120年前の1896年、ウィリアム・モリスがロンドンで亡くなり、その生まれ変わりのように宮沢賢治が東北の花巻の地に生まれました。賢治生誕、モリス没後120年の節目の年に当たります。

 宮沢賢治の研究は沢山あります。とくに文学関係の作品については、おそらく日本の作家のなかでは、最も研究が進んでいる作家の一人でしょう。そして、文学作品のなかに出てくる人物や事象についても、いろいろな角度から研究がおこなわれています。しかし、ここで取り上げる「産業組合」については、まだ十分に検討されていない、空白ともいえる部分ではないかと思われます。

 まず「産業組合」ですが、これは戦前の呼称であって、現在は使われていない。現在は、一般に「協同組合」と呼ばれる組織、団体のことで、戦前は農業団体を中心に、広く生活協同組合まで含む組織の名称だったようです。日本では1920年に、当初は信用事業が中心だったようですが、「産業組合法」が公布されました。それ以前は、頼母子講や無尽講、報徳社などの勤倹貯蓄の組織、また地域の販売・購買の組合などが自発的に誕生していた。それを品川弥二郎や平田東助などが、ドイツの協同組合を参考にして法制化したものだそうです。

 当時は信用事業を中心とする農村組合だったので、組合員も富裕な地主や農民が中心だった。しかし、1905年に中央会が創設され、さらに各県に分会が組織され、系統化が進んだ。こうした盛り上がりを背景に中央会が23年に「国際協同組合同盟」(ICA)に加入、また中央金庫法が公布、設立され、さらに全国購買組合連合会も設立されました。労働運動の盛り上がりと共に生協運動も活発化し、「日本一のマンモス生協」として有名な神戸の灘生協も、21年に賀川豊彦の指導のもと「神戸購買組合」「灘購買組合」として誕生しました。24年には利用事業の兼営も許可され「醸造工場」を設置し、味噌・醤油の製造・販売も開始しました。

 当時は、第一次大戦後の「大正デモクラシー」の時代、1917年のロシア革命で民主主義や社会主義の運動が高揚し、その中で日本では「産業組合」の名前で協同組合運動が始まっていました。しかし、間もなく戦後景気が終わり、23年には関東大震災があり、25年には治安維持法が成立、政府の労働運動、農民運動への弾圧も厳しくなります。27年には金融恐慌が起こり、さらに29年の世界大恐慌につながる時代でした。そうした中で、とくに東北農村は凶作の年がつづき、農民は疲弊のどん底に突き落とされ、娘の身売りなどが続出する惨状を呈していました。宮沢賢治は大正が昭和に代る1926年、花巻農学校を依願退職し、「本物の百姓」を目指して、地域の農民たちの「自由学校」である「羅須地人協会」を始めたのです。この辺の事情は、拙稿「宮沢賢治の<羅須地人協会>賢治とモリスの館開館十周年を迎えて」に詳しく書きましたので省略します。

 では、宮沢賢治は当時の「産業組合」、つまり協同組合の運動に、どのように関心を寄せ、運動に関わっていたのか。賢治が花巻農学校を退職し、羅須地人協会を始める2年前、1924年に「産業組合青年会」という詩を書いています。ここで賢治が産業組合に関心を持ち、とくに若い組合員である青年会活動に期待を寄せていることがわかります。この青年会活動は、1930年代に入り活発になり、40年には「農村共同体建設同盟」に発展したといわれています。それだけに政府の弾圧も受けて解散させられますが、賢治は早くから青年会の活動に注目、それに期待を寄せていたのです。そして、死後1934年に雑誌『銀河』に発表された「ポラーノの広場」の初稿、最初の草稿も書かれているのです。さらに花巻農学校の生徒と一緒に、演劇「ポランの広場」の上演を企画、準備しますが、それは実現できませんでした。しかし、みずから「風の又三郎」「グスコーブドリの伝記」「銀河ステーション」とともに、自伝的な「少年小説」としていた「ポラーノの広場」の初稿が、1927年に羅須地人協会の活動の中で書かれ、それが賢治の死後ですが、上記の通り『銀河』に発表されたのです。

 こうした経緯をみると、賢治の羅須地人協会の活動の夢、そして彼の理想郷である「イーハトヴ」の夢は、じつは協同組合としての産業組合、とくに青年部の活動により「ポラーノの広場」に実現されると考えていた。青年部の若い農民たちが「立派な一つの産業組合をつくり、ハムと皮類と酢酸とオートミル」を製造する。それらを「モリーオの市やセンダードの市はもちろん広くどこへも出るようになりました」と賢治は『ポラーノの広場』の最後で述べて、『ポラーノの広場』の歌を皆で合唱し乾杯する。この点では、ウィリアム・モリスの代表作『ユートピアだより』の最後のシーンにも通底する。「世界で一番美しい村」といわれるロンドンからテムズ川の源流、コッツウオールズの教会で秋の収穫を祝う祭りです。モリスの共同体主義(コミュ二タリアニズム)の夢が、田園の小さな教会の賛美歌と共に歌われています。賢治の「ポラーノの広場」の合唱も賛美歌448番です。日蓮宗の南無妙法蓮華経が、なぜ賛美歌なのか?

 その点で紹介したいのは、賢治の盛岡高等農林のクラスメイトであり、親友だった高橋秀松の影響です。彼は敬虔なクリスチャンで、宮城県の名取出身、高等農林を卒業後、賢治は花巻農学校、秀松は茨城の農学校で教鞭をとった。その後、京大の経済学部の選科生として勉強し、安田系の金融機関で働きました。賢治とは生涯の友として、お互いに励まし、かつ刺激し合った。賢治も羅須地人協会を始めた時点で「自分の弱い農業経済について仙台の東北大で勉強したい」と漏らしたそうですが、親友・秀松の影響もあった。二人は、当時の「産業組合」の活動に関心を持っていたと思う。

 クリスチャンの秀松は戦後、故郷の名取に戻る。初代の名取市長でした。また、仙南地域の農協活動に熱心に取り組み、宮城県農業共済組合連合会理事長を務め、「新しい農村建設に意を用いている」と書いています。賢治と秀松、二人の交友を辿り、さらに秀松の戦後の農協活動を調べることは、戦前の産業組合、そして戦後の協同組合運動を継承発展する意味からも、大変意義あることだし、大事なことだと思っています。仙台・羅須地人協会の事業にしたいので、皆さんのご協力、ご援助を期待します。

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by kenjitomorris | 2015-12-16 14:57



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