R・ラムネとP・ルルー、L・ブラン
 モリスは、マルクスの科学的社会主義に向けての移行期、転換期の思想として、プルードンの役割を大きく位置づけた。さらに14章「Utopistから近代社会主義への移行」においては、キリスト教社会主義者ラムネ、神秘主義のルルー、そして人道主義のR・ブランを挙げている。社会主義の思想の多様性、その深層に配慮しているのであり、「われわれは、その中であまり重要ではないが、2人(じつは3人)の名前を挙げたい。今日のセンチメンタルな社会主義やキリスト教社会主義の先駆者としては注目の価値がある。」
 まずラムネ(1782-1854)は、「キリスト教社会主義者のタイプであり、始めから牧師を志ざし、順調に司祭の職に付いた。彼は幸福、道徳、改革のための効果的な組織になるよう、カトリック教会を改革するよう努力した。このような努力について、聖職から助けられたり励まされたりもした。そして、最初に彼が実践活動に入るに当たり、彼らから若干の知識も得ていた。しかし、最終的には『将来』という雑誌の論文の中で、非常に民主的な改革を主張し、すべての教会、特に当時の法王ジョージ16世の怨みを買うことになった。彼の教会との決定的な決裂の兆候は、彼の『一信者の言葉』(1813)の出版で見られたし、法王も<体は小さいが、ひどく気の強い>と特徴付けていた。この後、彼は完全に民主的、共産主義的にさえなり、共産主義がそこで理解されるにいたった。そして、一連の政治的著作、パンフレットが続き、彼の新しい出発点を意味した。1848年には、彼の2つの論文が次々に弾圧された。彼はクーデターまでは、共和制議会に籍を置いていた。そして、余りにも革命的な内容で拒否されたが、代議士として憲法草案を左翼の側に引き寄せようとした。彼は、聖職の儀式抜きで、自分独自の方式で埋葬された。」
 以上、モリスによる紹介だが、ラムネは18世紀仏の合理主義哲学を批判し、社会契約論もまた「哲学的虚栄」として非難した。当初、若い自由主義的なカトリック教徒を結集し、自由主義と教皇至上主義とを結びつけた独自の理論を唱導した。この教会改革運動も、教皇がレオ3世からグレゴリウス16世に変わり、厳しく弾圧される中でラムネは、次第にカトリック信仰から離れ、サン・シモン流の社会主義の闘士となった。48年革命当時の活躍は目覚しく、極左派の活動を活発に行った。51年ナポレオン3世のクーデターの後は政界を去り、誰からも忘れられ、内的に挫折したまま、貧困のうちに亡くなった。教会改革のほか、政治面での彼の主な活動は、国家と教会の分離、聖職者への国家給与の廃止、中央集権主義の反対、地方分権自治の拡大などで、マルクスも例の『内乱』のなかで、第一草稿の補足の部分だが、「中央集権制は、パリに溢血をもたらし、それ以外のいたるところに生命の喪失をもたらす」というラムネの言葉を引用していた。
 次にP・ルルー(1798-1871)を、モリスは簡単に紹介する。
 「彼は、もともとサン・シモンの弟子だった。1840年に、彼の最も重要な著作『人類について』を出版した。これから彼の学派の名が「人道主義者」となった。彼は文学評論でジョルジュ・サンドやニアードフと一緒になったが、それも彼女の小説が人道主義の傾向を持っていたからである。1843年には、協同印刷協会の共同体組織を立ち上げ、「プロレタリアの問題の平和的解決」という名の雑誌も発行した。48年には、共和制議会に籍を置いている。しかし、51年には亡命しエルサレムで生活し、69年まで仏には戻らなかった。彼は、パリにおいて、<コンミューン>のもとで死んだ。しかし、彼の葬儀に列席したメンバーを代表した2人が『オフィシャル・ジャーナル』の中で<今日も、われわれが被害を感ずる神秘主義の考え方をもった哲学者としてではなく、6月の日々征服者の防衛を勇敢にも行った政治家の名誉のため>と書いている。これは、彼の考え方の非政治的、非実践的な傾向への当てつけである。しかし、これもまた、神秘主義で盲目になった道徳を教え込むことで社会改革を進め、自発的な協同の漸進的拡大を図ろうとするものだった。」
 ルルーについても少し補足すると、通説では1798年ではなく97年に、パリに近いベルシで職人の家に生まれた。家が貧しいため石工、植字工など、自ら働くうちに知識人と交わり、サン・シモン派の機関紙『ル・グローブ地球』の有力メンバーになった。「産業的自由」の立場から、次第に「人間的自由」の立場に変わり階級対立に反対、平等主義を主張した。上記の『人類について』は、そうした立場から文学者にも大きく影響した。文学者の協力を得て、『独立評論』、『社会評論』等を刊行、自らも文筆家として活躍した。48年革命には参加しなかったものの、議会に選出され、社会主義的極左派に属した。しかし、「感情と抱負」の宣伝家として、余りにも抽象的かつ神秘主義的になり、キリスト教だけでなく仏教まで含む、汎神論的な宗教的教理を主張するに到った。彼はパリ・コンミューンに参加し、彼の死に対しコンミューンは弔辞を送ったが、「1848年6月の蜂起の直後、勇敢にも敗北者の弁護を引き受けた政治家として敬意を表した」ものの、モリスも引用した通り、上記のような神秘主義的偏向への「当て付け」が加えられたのだろう。
 モリスは、「われわれは、このシリーズの最後を周知のR・ブランで終わろう」と述べ、以下のようにR・ブラン(1811-1882)について説明している。ただ、モリスの説明では、ブランの生年と没年が、ここでも通説と違っている点に注意したい。
 「彼もR・ラムネと同様、原則的には上記の人々より社会主義的でより重要な人物である。ただ、後述の彼の政治上の経歴からみると、ある意味では価値のないものに終わってしまったのだ。たとえ、彼が階級闘争を通してのみ社会の再生が可能だという、大いなる真理をまだ把握できなかった、との弁明を受け入れたとしても、そうなのだ。
 彼は1813年、母方がコルシカ人だった中産階級に生まれた。そして、彼と兄弟のチャールズとの関係が、有名なデューマの短編小説や戯曲『コルシカの兄弟』に示唆を与えたと言われる。1840年、彼は『労働の組織』を出版したが、そこでの考え方が、よく知られるようになった有名な<国立仕事場>として実現された。この著作で、彼は純粋な社会主義の極限とも言える、そして現実の社会的生産の基礎ともなる<能力に応じて働き、必要に応じて与えられる>原則を提起した。
 彼は1848年の革命政府で活発に活動し、特に政治犯の死刑廃止の勅令を通した。また、彼の<国立仕事場>が、その固有な欠陥で失敗した点で、一般に悪く思われてはいるが、それは政府が危険だとして抑圧したこと、その抑圧も大部分6月革命をもたらした原因にある点に注意すべきだ。けれども、われわれはまた、この計画が純粋に社会主義者の原則に立脚していなかった事、その時点では危険だと考えられてしまった事も、同時に述べておかねばならない。7月事件の結果、彼は仏からイギリスに亡命を余儀なくされた。そこで『仏革命史』を執筆した。
 1869年、彼は仏に戻り、立法院に選出されたが、その後の展開では副次的役割を演じただけだった。実際、彼は3月の日々(パリ・コンミューン)では、人民を見捨ててパリを離れ、ベルサイユで反動的内閣の<自由派>に収まるという、上述の彼の人格に消し難い汚点を残している。1883年に死んで、彼の世評も影響も消え去ってしまった。」
 ここでも若干の補足をしておく。R・ブランの父は、スペイン王J・ボナパルトの高級財務官だったが、ナポレオンの没落で失職、窮乏生活を強いられた。1830年7月革命の最中、パリに出て法律を学び、彼もラムネと同様、『国民』、『協和評論』、急進的な雑誌『良識』などの編集にタッチした。さらに39年『進歩評論』、『民衆新聞』を創刊、その中で上記の『労働の組織』も出版された。これは48年まで10版を重ねたベストセラーで、多くの労働者に読まれた。
 彼はブルジョア社会の競争による富の格差を批判、「社会的仕事場」による生産と消費の「協同組合」の建設を提案した。サン・シモン、フーリエの考えに近いが、ブランは国家の役割を特に重視、国有化を主張した。その国家も、共和主義的国家であり、急進的共和主義者として、仏大革命の「自由・平等・友愛」に対し、個人主義を友愛主義の原理に変える革命を主張した。48年2月革命では臨時政府の労働者代表となり、労働委員会の設立によって労働時間短縮、下請け制の廃止などを実現した。ただ、彼の「国立仕事場」の提案は、完全に骨抜きにされて失業対策事業になり、モリスの言うとおり、かえってブラン自身が批判にさらされる原因となった。
 
 以上、3人のUtopist社会主義から、マルクスの「科学的社会主義」への移行期の社会主義の動向を、モリスの紹介を補足しながら紹介した。エンゲルスの『空想から科学へ』が、単なるイデオロギー的仮説に過ぎない「唯物史観」を下敷きにした、硬直的なイデオロギー的処理だったとすれば、モリスの紹介によって、この時代の社会主義の思想の多様性が浮かび上がってくるのではないか。こうした多様性の中から、マルクスが唯物史観のイデオロギー的仮説を乗り越えて、『資本論』により社会主義を科学的に基礎付けようとしていたのだ。
 すでに明らかなように、社会主義の思想の多様性は、それ以前に遡ることもできるが、仏大革命から19世紀の70年代まで、一方で経済面では、産業革命の工業化が、英から仏へ拡大して資本主義が確立を向かえた。この資本主義の確立とともに、古典派経済学を中心に、経済学の科学的発展が進んだのである。同時に他方では、政治的には仏大革命、そして1848年革命、さらに普仏戦争に伴うパリ・コンミューンへと、段階的に激動の波が押し寄せた。
 エンゲルスの唯物史観のイデオロギー的テーゼは、こうした変化を十分に踏まえたものか?歴史の激動の中で生まれた社会主義の思想の多様性を、十分に踏まえた「空想的社会主義」批判ではなかったのではないか。とくにマルクスが、48年革命時点での唯物史観と未熟な「経済学批判」の体系を、自己批判的に乗り越えて60-70年代に『資本論』体系を構築した、それをどのようにモリスのユートピア社会主義が受け止めようとしたか、次の課題はマルクスの「科学的社会主義」である。  
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by kenjitomorris | 2008-03-01 21:00
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