なぜ、賢治とモリスを切り離すのか(続)
<情報コーナー>
 1/25から行われた「とうほく蘭展、バラとガーデニングフェスタ07」のミニガーデンコンテスト部門で最優秀賞だった「セロひきのゴーシュ」のセロを購入しました。これで賢治グッズがまた1つ増えました。「とうほく蘭展」では、最近NHKなどで「世界で一番美しい村」と紹介され、モリスの『ユートピア便り』の舞台でもあるコツッウォールズ地方のコテージ(レプリカ)を、1昨年購入して「館」に設置してあります。今回のセロと一緒に,ぜひ環境芸術の夢を膨らませて下さい。
<研究ノート>
 吉本には1966年に出版された『カール・マルクス』という著作がある。「戦後20年にして崩壊しつつある古典左翼の抱き合い心中から、マルクスを救出しようとするという意味」で書かれたもので、大変面白く読んだ記憶がある。最近、新たに「光文社文庫」に収められて刊行されたが、ソ連崩壊とマルクス・レーニン主義の破綻の中で、今回いかににマルクス救出になるか、さらに「賢治とモリス」の関連でも読み直してみたい。
 吉本による賢治のユートピア論を受けて、ほぼ同じ論調で賢治とモリスを切断する論稿が続いた。1981年『日本文学』10月号所収の多田幸生「宮沢賢治とウィリアム・モリス」(のちに『宮沢賢治・愛と信仰と実践』所収)である。多田論文では、吉本論文では立ち入らなかった「農民芸術概論」、羅須地人協会の活動など、賢治とモリスの関係についても、具体的に論じられている。その点では、賢治とモリスの関連について、本格的に論じた戦後の数少ない論稿である。とくに「農民芸術概論」について、「綱要」や「農民芸術の興隆」のモリスに関説した箇所に立ち入り、かなり詳細に資料チェツクの上、検討を加えられた。それにより、室伏問題が大方片付けられた功績は、高く評価すべきだ。 
 多田論文では、吉本論文と異なり、具体的内容が不明な「或る心理学的な仕事」には特に触れていない。冒頭から「農民芸術概論」の具体的検討を始めているが、モリスの芸術観・労働観と賢治のそれとの間に、決定的な違いがあることを、繰り返し強調する。無論、賢治とモリスの間に違いのあるのは当然で、時代や国の違いだけではない。とくにモリスは工芸を中心に、賢治は農民芸術を中心にすえていた。二人の社会的・政治的活動も違っているし、いうまでもなくキリスト教と仏教の宗教上の違いがある。
 しかし、工業化による資本主義の発展の中で、農業と工業が社会的分業を形成し、生産と消費が分離し、さらに土地とともに労働力の商品化による単純労働が「労働の疎外」を極限まで進めようとしていた現実から、人間労働のあり方を問い直そうとした点では、2人の天才が強く共鳴していたのではないか?だから賢治は、東北農村の厳しい現実から、モリスを肯定的に受け入れたし、別に違和感や批判的コメントを書き込むようなことはしなかったのではないか?さらに与蔵さんの「聞き書き」を読めば、賢治の農民芸術論の基調が、モリスの労働観・芸術観にあることは明白なのだ。
 昔の百姓の生活は、米作りなどの生産的労働と祭りなどの芸術が一体化していた。ところが、近代化・工業化の進展で、分業化して労働疎外が進む。だから生産的労働と芸術的行為の一体性を取り戻す、そこに賢治は農民芸術・地人芸術の復権を目指していた。「農民芸術概論」の真髄は、モリスやラスキンの労働観・芸術観の継承・発展にあったし、詩人の直感力だろうが、モリス以上に雄大なポストモダンの芸術思想・社会思想の全体系の構想が浮かび上がってくる。もし、それが賢治の手で完成し公刊されたら、国際的にも高い評価を受けたに違いない。
 さらに賢治が「農民芸術概論」を準備し、花巻農学校を辞して、羅須地人教会の実践を始めようとしたのは、「或る心理学的仕事」があったかも知れない。しかし、直接には農学校の教育実践の延長上に、教育実践の限界を乗り越えようとして、モリス風にいうなら日本の東北での「アート&クラフト運動」をはじめたのではないか。賢治が「桜の別荘」で独居生活に入り、「本当の百姓」になろうとした志も、たんに「米作り」の生産的労働をやり、「物々交換」をすることだけではない。彼の「地人」像は、羅須地人協会の「生活芸術」の実践から創造しようとしたものだし、「雨にもマケズ」の人間像に結晶したように思う。
 多田論文では、モリスの労働観=芸術観に対して、賢治にあっては「芸術と労働とが截然とくべつされ、二つのものがまったく異質なものとして、それぞれ別個に把握されていた」と、かなり断定的に主張されている。しかし、それを裏付ける賢治の主張はといえば、例えば「農民芸術の産者」の中で、まず「職業芸術家は一度亡びねばならね」と述べ、農民・地人が生産的労働の中に芸術を取り戻す。そして「創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自づと集中される/そのとき恐らく人々はその生活を保証するだろう/創作止めば彼はふたたび土に起つ」、ここから多田氏は「農民は芸術的な創造意欲の油然と湧き起こるときには創作に専念する。しかし、それがひとたび失われれたとき、即座に農民に立ち返り本来の仕事たる農作業に精励する。」したがって、賢治では「芸術と労働とが截然と区別され、二つのものが全く異質なものとして、それぞれ別個に把握されていたということなのである。」
 しかし、待って欲しい。農民が祭りで踊り、畑で耕す時、時間的・空間的に分離するのは当たり前の話ではないか。モリスが詩を書くのと、壁紙をデザインして製作するのが、時間的・空間的に分離して行われるのと同じ次元の話ではないか。踊りながら耕すわけにはいかないし、詩を書きながらカーテン地を織ることはできない。それがなぜモリスの労働観=芸術観を賢治が否定していることになるのか?いずれにせよ無理な主張だし、だから多田氏もまた「賢治が芸術と労働とを截然と分け、農業労働に芸術的なものを全くみていなかったといえば、必ずしもそうではなかった」と述べ、「春と修羅 第三集 詩稿補遺」の「第三芸術」を挙げている。
 その詩に登場する「白髪の農夫とはまさしく芸術家であったのだ。<労働=芸術><農民=芸術家>と図式化するまでもなく、この詩にうかがえるのは、労働と芸術の一致―その瞬間における一致のみごとな形象化である」ことは認める。しかし、それは単に形象化に過ぎず、「労働する姿に<芸術>をみていたのはあくまでも賢治の側なのであり、それは詩人の詩的直観---彼の姿勢の然らしめるところであった」と述べる。さらに、現実に生産的労働に苦悩する農民に芸術を見ようとするのは「安易」であり、「それは一種のまやかし、吉本隆明の表現を借りるなら<恰好のいい嘘>ではないのか」と詰め寄る。
 しかし、賢治は「白髪の農夫」の話を、わざわざ「第三芸術」と銘打っている。(1)芸術至上主義とも言える「芸術のための芸術」、(2)職業芸人に他ならぬ「生活・人生のための芸術」、それらに対し賢治はモリスの「小芸術」=生活芸術として(3)「芸術としての人生・生活」である第三芸術を提起したのではないか。それを(1)、(2)の次元に引き戻し、農民と芸術家の分業の立場の違いから批判しても意味がない。第三芸術そのものを否定するだけになってしまう。賢治とモリスの異質を説明したことにはなるまい。
 さらに、東北農民と詩人賢治の関係が、ロンドンの職人労働者と詩人モリスの関係と、どう違うのか。賢治だけ責め立てられる筋合いはないと思うが、結局のところ二人の違いは社会変革、政治的実践との関わりの差異に帰着することになる。その限りで多田論文は、吉本説と同じ立場に立つことになっている。例えば賢治も、羅須地人協会の活動から、さらに当時の労農党の政治活動へ接近した。しかし「賢治における政治の季節はごく短期間に終った。」この短期の実践があるかぎり、モリスの労働観=芸術観を賢治も共有するが、それだけに過ぎない。「モリスは、理想社会の実現---のために、己れの身を政治的実践に投じた。社会主義は必要な変革であり、実現することが可能であると確信していた彼にあって、なさねばならぬことはただ一つ、自分を実践活動に結びつけることだったという。」
 モリスの社会主義と芸術思想・社会思想が、賢治の羅須地人協会や労農党への接近と、全く同じでないのは当然だ。しかし、そのことが労働観=芸術観に関して、二人が「全く異質」といえるものなのかどうか?さらに「このモリスに<政治>はあっても、<宗教>はなかった。事実、彼には宗教に対する関心などはこれっぽっちもなかったらしい。その逆に、賢治には<宗教>だけがあった。そこに両者の芸術観=労働観が相違する根本の理由があったといえるだろう」と。
 この結論に関しては、上記の著作では多田氏も表現を和らげ、さらに「彼は、<科学的な分析にたいしても形而上学や宗教にたいしても関心がなく--‐>とはっきり語っている」として、モリスの「如何にして私は社会主義者になったか」から引用文を加えられた。たしかにモリスは、マルクスの影響を受け、社会主義者を自認していた。しかしエンゲルスからは、空想的社会主義者として扱われ、又モリスが属していた当時の「社会民主同盟」などは、非合法の地下組織ではない。思想的啓蒙団体のレベルのものだったし、政治的影響力も低かった。ロンドンの工藝職人たちを相手とした「ハマスミス社会主義協会」などは、羅須地人協会の活動と大した違いがあったとも思えない。社会主義といっても、非合法の暴力革命の前衛党の実践とは違うのだ。ソ連崩壊の今日の現実から、社会主義の捉え直しが必要ではないか?
 宗教については、モリスが社会主義の思想と科学、宗教と区別していただけで、宗教には多大な関心を払い、深い造詣をもっていた。オックスフォードでは、牧師になろうと勉強していたから大変な博識であり、また宗教を捨ててデザイナーになったわけでもない。中公クラシックス版『ユートピア便り』の解説では、多田稔氏が次のように説明されている。
 「社会主義を奉じ忍と情熱に生きたモリスと西欧の伝統とは切っても切れないキリスト教との関係である。教会建築の美に打たれ聖職者にならなかったモリスは、教会装飾、彼の言うレッサーアート(小芸術)に立脚して発展していったのであるが、彼はオックスフォード時代から英国国教会の広教会に属していたキリスト教社会主義者チャールズ・キングスレーの書物をよく読んでいた。‐‐‐モリスの芸術論からしても、モリスは、ライナー・マリア・リルケの言う<神様と同じ方向をみていた人>なのであろう。」 
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by kenjitomorris | 2007-02-04 14:20
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