労農派と宮沢賢治―堺利彦との接点―
 賢治生誕120年に先立ち、昨2015年8月に鈴木貞美『宮沢賢治 氾濫する生命』(左右社刊)が公刊されました。「人間文化研究機構」の関係者の著作だけに、賢治精神の多様性、複雑性を描き切っていて、大変興味深く拝読しています。「賢治、百面相」「万華鏡の彼方へ」など、とても真似ができない手際で、賢治の作品を論じています。その中で「イーハトヴの歩き方」、とくに「賢治と社会主義思想」については、筆者と関係の深い論点だけに、気の付いた点を挙げておきたいと思います。
 とはいえ、「賢治研究」(宮沢賢治研究会)128号で、すでに<「労農党」のこと>として、研究の先輩である栗原 敦さんが、一方で「鈴木貞美の労作」として評価されつつ、賢治と労農党との関連について、若干の論点を提起されています。まず「鈴木の著書では、後の日本社会党につながる流れや、アナーキズム系をも含む広がりの中に置いて広く捉えようと試みています。実際、伊豆の大島で農芸学校を開設する伊藤七雄(賢治は昭和三年に七雄・チエ兄妹の下を訪ねています)は浅沼稲次郎との交流があったのですし、賢治の農民運動各派に対する幅広い関わりを想定する意味では妥当な見方だと思います。」と評価されています。この栗原氏の評価には賛成で、賢治の思想的な立場は、詩作の同人「銅鑼」に見られるとおり、草野心平や辻潤などアナーキストからの高い評価と人的な関係も深かった。しかし、羅須地人協会などの社会的活動では、いわゆる労農派とのつながりが深かった点が重要でしょう。

 ここで労農派と書きましたが、一般に労農派というのは講座派との対立で、当時の日本資本主義や革命の性格をめぐる学者研究者の学術的な論争で、講座派は岩波書店の「日本資本主義発達史講座」に結集した学者たちで当時の日本共産党の理論的なグループが中心だった。労農派は、共産党やコミンテルンの方針から自立し、独自の研究や運動を進めていましたが、①講座派と対立した学者グループ、②労働組合や農民組合など多様な社会運動の大衆団体、③いわゆる労農党と称する政党組織、以上3つに大別できるようです。いずれも雑誌『労農』の影響を受けていた点で、労農派と呼ばれていたのです。さらに共産党が非合法の地下組織で鉄の規律による前衛党の活動だったのと違い、いわゆる労農党を含めて合法的な大衆組織の運動だった。
 賢治の羅須地人協会も、その名称が賢治流の特異な表現ではありますが、官制の学校ではない「自由学校」で農民学校、農芸学校だった。分類上は②ですが、各地に自立した労働学校や農民学校があり、賢治の羅須地人協会も後輩の松田甚次郎「最上協働村塾」、伊豆大島の伊藤七雄の大島「農芸学校」、さらに賢治と一時同居した千葉 恭の水沢「研郷塾」などとのネットワークが形成されつつあった。そうした活動が羅須地人協会への官憲の弾圧を招きましたが、稲作や土壌改良の農民指導は続けていたようです。そして、賢治は「労農党のシンパ」として、政党の活動にも積極的だった。その点について、鈴木貞美氏の著作でも詳しく触れ、さらに栗原氏のコメントも出ているわけです。
 そこで③の当時の政党組織ですが、地下組織の共産党の加入戦術の影響もあったのでしょうが、複雑な利害や党派の対立で四分五裂の状態でした。賢治が花巻で、どの党派に協力していたのか?鈴木氏は著書で「日本労農党稗和支部」とされていますが、栗原氏は「誤解を招く書き方」とされ、「新校本全集」を使い整理されたうえで、<「労農党稗和支部」でなければならない>と注意されています。諸派分裂の中だけに、賢治の立ち位置を明確にする必要があるでしょう。

 その上で、じつは伊藤与蔵「賢治聞書」(『賢治とモリスの環境芸術』所収)の中で、賢治の労農党の選挙や演説会への協力の話に関連し、当時の泉国三郎の政見発表の演説会のポスターの写真を載せました。そこでは「労農大衆党公認候補」と書いてあり、泉国三郎は労農大衆党の稗和支部長だった。ですから、賢治が当時シンパとして協力していたのは、日本労農党でもないし、労農党でもない。労農大衆党だったと思います。そして、労農大衆党として、上記の伊藤七雄や浅沼稲次郎との関係があったのではないかと思うのです。
 さらに興味深い点があります。ごく最近ですが、小正路淑泰編著『堺利彦ー初期社会主義の思想圏』(論創社刊、写真参照)という大著が刊行されました。その中で編者が、第14章「堺利彦農民労働学校―校舎建設運動を中心に」を書き、その建設運動の開始について設置者が「全国労農大衆党京築支部」とされ、発起人としては上記①、②、③の錚々たる顔ぶれが並びます。開校は1931年2月11日、場所は堺利彦の郷里である福岡県京都郡行橋町で、堺は興奮気味に「明日の朝を以て、私は実に、この故郷に迎へられるのである。生まれて初めての<校長>といふ身分を以て、この故郷に<錦を飾る>のである。私の<錦>は可なり毛の抜けた背広と、くの字なりのズボンとに過ぎないが‐‐‐」と書いている。
 しかし、校舎上棟式の翌日、堺は東京で脳溢血で倒れる。それに先立つ31年9月には満州事変が勃発、労農大衆党も堺を議長とする本部会義を開催、鈴木茂三郎の起草した戦争反対の声明文を発表していた。同時に反対闘争委員会を設置、委員長が堺利彦、行動部主任に浅沼稲次郎、調査部主任に鈴木茂三郎の名前が見えます。労農派の「総監督」と言われた堺、それに浅沼稲次郎、そして水沢出身の伊藤七雄、それに宮沢賢治の点と線がここで結ばれてくる。賢治の羅須地人協会と当時の労農大衆党のシンパとしての活動のつながりが浮かび上がって来ます。そして、1933年1月23日、堺が「棄石埋草」の生涯を閉じ、それを追いかけるように9月21日に賢治も「雨ニモマケズ」を残して他界しました。

 もう一点付け加えましょう。堺利彦と言えば、ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』の抄訳を、『理想郷』のタイトルで1903年に日本で初めて平民社から発刊しました。日本におけるモリスの紹介の大先達であり、マルクス―モリスの西欧社会主義の日本における正統的な継承者と言えるでしょう。宮沢賢治もまた、「農民芸術概論綱要」を中心に、モリスの農民芸術の思想を位置づけ、羅須地人協会で講義し実践しようとした。さらに堺もまた、人生の最後を九州の地で農民労働学校を立ち上げていたのです。賢治と堺利彦が、とても近く感じていますが、「賢治とモリスの館」には堺の『理想郷』、また望郷の和歌「今もなほ 蕨生ふるや茸いづや わが故郷の痩せ松原に とし彦」の真筆の掛け軸もあります。ご覧ください。
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by kenjitomorris | 2016-06-04 15:41
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