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新庄「最上共働村塾」の松田甚次郎


 2013年は宮沢賢治の没後80年でしたが、同時に山形県の最上・新庄で「最上共働村塾」、後に「土に叫ぶ館」と呼ばれましたが、それを興した松田甚次郎の没後70年でもありました。賢治の死後、山形の新庄で、新庄・羅須地人協会ともいえる理想郷イーハトーヴづくりを、丁度10年続けた賢治の後輩です。当時のベストセラーだった実践録『土に生きる』は、賢治精神を継承し、花巻・羅須地人協会の「教育基本法」だった賢治の「農民芸術概論綱要」から学び、それはまたウィリアム・モリスのユートピア思想でもあった。モリスー賢治ー松田甚次郎の農芸学校は、賢治がわざわざ足を運んで建設に協力した伊豆大島の伊藤七雄の「大島・農芸学校」と並んで、「芸術をもて あの灰色の労働を燃せ」の農民芸術による新しい農業、農村の復興を目指す地域づくりの「自由学校」だったのです。花巻・羅須地人協会の賢治の旗上げに応えて、伊豆大島では伊藤七雄が、山形の新庄では松田甚次郎が、近代化の犠牲となって疲弊し、「娘地獄」から抜け出すために農村の復興に立ち上がった。賢治の羅須地人協会は、花巻の下根子だけのものではない。そこで挫折し、敗北した訳では決してない。伊豆大島に、また山形・新庄の地に、日本の東北土着のアーツ&クラフツ運動として、新しい農芸ネットワークが形成されていたと思います。

 宮沢賢治1896~1933(明29~昭8)、伊藤七雄1898~1931(明31~昭6)、松田甚次郎1909~1943(明42~昭18)、一番先輩の賢治が37歳、七雄が33歳、そして甚次郎も44年の短い生涯だった。いずれも東北の農村の富豪の家庭に生まれながら、結核で若い命を運動に捧げた。賢治だけの羅須地人協会ではなく、三人の新しい農村運動、三人の協力した農芸学校、三人のアーツ&クラフツ運動のネットワークとして、羅須地人協会を位置づけた時、初めて賢治精神の力強さが理解できる。とくに賢治と甚次郎の間には、盛岡高等農林の先輩から後輩への、農民芸術の創造による農村振興への熱い思いが継承されていました。甚次郎は卒業に当たり、先輩・賢治から「小作人たれ」、そして「農村劇をやれ」と強く諭され、その感銘を胸に新庄に帰郷して「最上共働村塾」を立ち上げ、その生涯を捧げることになった。その甚次郎の没後70年を記念して、新庄市の「雪の里情報館」で記念の展示会が開催され、展示の最終日の1月12日には、甚次郎の研究と地域の演劇活動をしてきた近江正人氏(元新庄南高校長)の講演があった。仙台・羅須地人協会から出席した大平達郎さんが持ち帰った資料などを利用して、賢治と甚次郎の関係について以下紹介しましょう。

  甚次郎が生まれたのは山形・最上の稲舟村、鳥越の家老の家柄で、その後は帰農して祖父は鳥越村の戸長を務め、水田や山林経営を行う大地主、常雇人を30名以上も抱えていた。その長男として1923年(大12)県立村山農学校農業科に入学、26年に卒業して盛岡高等農林農業別科に入学、賢治の後輩として1928年(昭2)に終了しています。賢治の宮沢家もそうだし、七雄の伊藤家も水沢の大地主で事業家、いずれも東北の地方の富豪だし、いわゆる地主の金貸・商人資本として有力な地方の事業家の子息だった。だから、盛岡高等農林で学ぶことができたし、七雄は早稲田大学からドイツへ留学といった、当時の高等教育を習得した地域の学識者・インテリだった。だからこそまた、地域での改革運動もできたのでしょう。単なるプロレタリアートや小作人ではない、インテリゲンチィアだったのです。甚次郎は高等農林終了の前年、岩手日報に「農学校を辞し、新しい農村の建設に努力する宮沢賢治」の報道をみて、翌28年に秋田出身の学友と共に花巻・羅須地人協会を訪れ、賢治との運命的な出会いとなりました。 
 
 その際、「小作人たれ」「農村劇をやれ」と賢治に諭され、「最上共働村塾」を始めましたが、甚次郎たちは、事前に旱魃に苦しむ岩手県の赤石村を訪れている。当時、東北の農村は、赤石村はじめ凶作による打撃が大きく、農村の救済が叫ばれ、様々な救援も行われていた。しかし賢治は、単なる救援に対して、新しい農村建設として「小作人たれ」、農民芸術として「農村劇をやれ」と強く諭したに違いありません。たんに上から、また外からの農村救済には限界がある。農村再建のためには、農芸学校としての農民教育から、「農民芸術概論綱要」を教育基本法とする農芸の創造から、新しい村づくりを目ざす花巻・羅須地人協会の立場を訴えたのでしょう。その賢治の訴えに応えて、誠実な後輩の甚次郎が「最上共働村塾」を立ち上げたと思います。

 甚次郎の賢治訪問は、全部で3回行われ、いろいろ懇切な指導を受けました。2回目の訪問は、同じ1927年(昭2)の8月ですが、賢治の教えに従い甚次郎は父親から6反歩の小作田を借り受け、小作人として鳥越倶楽部を作る。地元の如法寺の青年住職・田宮真龍の協力を得ながら、農村劇「水涸れ」の上演の指導を受けるために、賢治を訪れました。その題名はじめ、演劇全般を指導して貰い、9月に鳥越八幡神社に土舞台を作り、上演に成功したようです。3回目の訪問は翌年1928年(昭3)8月ですが、賢治が過労で倒れた見舞いを兼ねて、鳥越倶楽部の活動などの指導を仰いだようです。しかし、この賢治訪問が最後になってしまったようで、1933年(昭8)9月には、賢治は他界します。甚次郎の鳥越倶楽部の活動は軌道に乗り、活動の場も大きく広がって1932年(昭7)8月には、元営林署の番小屋に念願の「最上共働村塾」が設立、2週間の青年講座が開かれました。ここで遂に、花巻・羅須地人協会の活動が、山形・最上の地に継承されたと言えるでしょう。

 しかし、花巻・羅須地人協会もそうでしたが、この時代は満州事変が勃発、左翼運動への弾圧も厳しく、「最上共働村塾」にも官憲の眼が光って来た。特高に狙われた、といわれます。しかし、1933年(昭8)には、第1回の有栖川宮記念更正資金を拝受したこともあり、共働村塾の活動は続けられました。その意味では、賢治精神の羅須地人協会の活動は、松田甚次郎の手で受け継がれたといえます。ただ、この継承と発展については、花巻・羅須地人協会との関係が問題になるでしょう。賢治の羅須地人協会が、官憲の弾圧もあり、賢治が挫折と絶望、そして転向していれば、甚次郎の継承も限定的になり、消極的なものになりかねない。しかし、すでに述べたように賢治の活動は、下根子・桜の別荘の集会は休止しましたが、肥料相談所や花壇設計、砕石工場など、死ぬまで続けられていた。反省の手紙などはありますが、とくに羅須地人協会の活動を、賢治らしく自己批判の末に解散宣言した訳でも何でもない。伊藤与蔵の「聞書」など、協会活動の再開を期待して満州から花巻に帰ってきました。だからこそ、賢治や協会のメンバーの活動再開への期待をつないだ点で、甚次郎は花巻・羅須地人協会の活動を積極的に継承したのです。

 それだけではありません。甚次郎の共働村塾は、「農民芸術概論綱要」の賢治精神を発展させ、様々な創造的活動を展開しました。すでに鳥越倶楽部の時代から、女性(母性)保護運動、共同保育活動、共同浴場、母の会や敬老会、さらに禁酒禁煙、有機農業や山岳立体複合農業、小農規模のデンマーク農法、生産・消費の協同組合など、多彩な活動が実践されました。これらの活動が賢治精神の創造的発展だったことは、甚次郎がベストセラー『土に叫ぶ』を上梓した時点で、改めて1938年(昭13)宮沢賢治の墓参、さらに「雨ニモマケズ」詩碑建立、続いて自ら編者になり『宮沢賢治名作選』(羽田書店)を刊行しています。甚次郎の最後は、大政翼賛会の地方支部役員など、右翼的思想に傾斜します。しかし、国民総動員で戦時体制に突入した中、それもまた生きていくための残された最後の手段だったのではないか?甚次郎は、1942年(昭17)宮沢賢治の10回忌に出席します。その後、賢治の招きに誘われるかのように翌43年8月4日、甚次郎もまた44歳で逝ったのです、合掌。

新庄「最上共働村塾」の松田甚次郎_a0063220_1072671.jpg

by kenjitomorris | 2014-02-07 07:40
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