大阪労働学校と大原社会問題研究所
 宮澤賢治の羅須地人協会が、花巻農学校のような官制の学校ではなく、自由学校としての私塾に近いものであり、当時ヨーロッパではデンマークやイギリス各地に設立されていた、それらを参考にしていました。それだけでなく、すでに日本でも1920年代、全国的に「会社が作った養成所や政府や自治体が経営した労働学校ではない、いわゆる<独立労働者教育>を目指した学校で10年以上続いたのは東京と大阪だけでした」(二村一夫著作集「大阪労働学校の人びと」)、そうした独立した労働・農民学校を、賢治もまた東北・花巻の地に旗上げした、それが羅須地人協会だったように思います。
 そこで大阪労働学校ですが、二村一夫氏の説明を要約しましょう。設立は、1922年(大11)で、16年間存続したが、学生数は少なく、多いときでも一クラス50-60名、月水金の週3回、しかも夜学だった。入学者の延べ人数も2000人ほどの小さな学校だった。この学校の特徴は、少人数にもかかわらず、「独立労働者教育」を目指していたこと、しかも教授陣が大変豪華だったことです。キャッチフレーズは「ブルジョアに大学あり、プロレタリアは労働学校へ」でしたが、教授陣は大学並み、否それ以上でした。
 学長クラスが、大内兵衛、森戸辰男など、学者では高野岩三郎、櫛田民蔵、新明正道、運動家として細迫兼光、川上丈太郎、杉山元治郎、ジャーナリストは笠信太郎、尾崎秀美など、多士済々、錚々たる陣容だったと思います。この教授陣と卒業生たちは、第二次大戦の戦中から戦後にかけて、大変大きな社会的影響力を発揮した点が注目されます。二村氏は「その多くの関係者の中から、労働学校で中心的な役割を果たした人を数人選び、その人々を通して大阪労働学校の歩みを明らかにしてみたい」と述べています。
 まず筆頭の人物は、学校創立の中心になった加川豊彦です。彼は1888年(明21)に神戸に生まれ、関西を中心に大正・昭和のキリスト教社会主義の運動家で、戦前日本の労働運動、農民運動、労農党など無産政党運動、灘生協など生活協同組合運動で活躍し、「貧民街の聖者」として国際的にも有名です。戦後の日本社会党の結党の中心人物でした。
 「大阪労働学校創立の中心となったのは賀川豊彦です。その他にも大阪毎日の記者の村島帰之、総同盟大阪連合会の西尾末広も熱心でした。しかし、学校の創立基金として当時の金で5000円、今なら2500万円にもあたる大金を出し、初代の校長となり、創設期の大阪労働学校の性格を決めたのは賀川でした。」賀川は神戸神学校の在学中から神戸のスラム街に住み込み、貧民救済に活動しましたが、賢治同様に結核に罹りました。しかし活動の中で結核を克服、その体験などを描いた自伝小説『死線を越えて』が、当時の大ベストセラーとなり、その印税を労働学校設立に提供したそうです。
 賀川は、1914年アメリカに留学、労働組合運動の重要性を学び、1917年帰国後、日本でも労働運動が本格的に発展する中で、鈴木文治の友愛会に参加し、関西地方のトップリーダーになる。そして1921年には神戸の三菱造船所、川崎造船所の大争議の指導に当たりましたが、最終的には組合側の敗北、ちょうどその時点で、大阪労働学校の創立計画が持ち上がり、賀川は資金提供だけでなく校長としても協力しました。「愛にもとづく人格運動」として、労働者教育の重要性を強調しましたが、日本農民組合や「イエスの友」会、上記の「日本一のマンモス生協」神戸・灘生協などの多彩な社会的活動で多忙を極めました。
 そうした中で、大阪労働学校の特徴は、学生達が学校の運営に自主的に参加し、自主運営を進めた点です。学校の主事が不在でも、学生委員会が自主的に学校を運営し、学生委員長が主事の代わりを務める。そればかりか「労働組合論」「選挙戦術論」などの講義は、学生自らが講師を務め、それこそ「教師も学生、学生も教師」の教育=共育の教育実践だったのです。こうした学生たちの自主的な努力とともに、白樺派の作家・有島武郎の遺産による「労働者教育会」からの資金援助もあり、さらに「有島財団」が学校専用の土地と建物を買ってくれました。
 「この校舎の取得の際、またその後の大阪労働学校の発展の上で重要な役割りを果たしたのは、当時、天王寺にあった大原社会問題研究所の所長・高野岩三郎です。彼は学生委員会にかわって組織された大阪労働学校運営委員会の責任者になることを進んで引き受け、財政問題解決のために熱心に働きます。彼は自分の著書の印税をそっくり寄付しただけでなく、友人、知人を説いて同校の後援会員とし、毎月10円づつの寄付を約束させました。」
 高野岩三郎が非常な肩入れをした理由について、彼の実兄の高野房太郎が、アメリカ労働運動を学び、日本で最初に近代的労働組合をはじめたこと。しかも実弟の岩三郎のために、長期にわたり学資を送り続けながら、35歳の若さで青島で夭折した、その遺志に報いること、などを挙げています。高野兄弟が労働運動、社会主義にとって、教育活動の重要性を深く認識していたことが、大阪労働学校への協力となっていたわけです。そして、高野が運営委員長になったことにより、さらに大原社会問題研究所が全体として、労働学校の運営、教育に協力することにもなりました。単に授業の講師を引き受けるだけでなく、運営委員や会計事務まで大原社研のメンバーが協力したのです。
 ここで大原社会問題研究所の名前が出ましたが、この大原社研と略称される研究所は、非常にユニークな存在でした。すでに説明しましたが(setohara.exblob.jp 賢治とモリス<研究ノート>を参照)、今日なお日本の美術館を代表する岡山県倉敷市の「大原美術館」を創立したのは、倉敷紡績株式会社の創業者で社長の大原孫三郎でした。彼は、私財を投じて一方で大原美術館、他方で大原社研を創立、日本で始めて社会科学系の民間研究所を設立しました。そこからは、何とはなしにモリス達のアーツ&クラフツ運動の「芸術を暮らしに生かす」社会主義の思想が連想されるように思います。さらに、モリス・バックスの『社会主義』から日本で初めて本格的なマルクス『資本論』解説を「大阪平民新聞」に連載した山川均、彼も倉敷の出身で、大原孫三郎とは同級生の間柄でした。そして山川均と言えば堺利彦、こうした人脈、地縁のつながりもあり、高野岩三郎を中心に大原社研は、いわゆる労農派の教授グループのバックアップ組織として、極めて大きな役割を果たしていました。しかも大原社研は、大阪・天王寺に開設されましたが、東京には事務所が置かれました。東京と関西の教授グループは、大原社研との関係もあって、高野岩三郎運営委員長への協力のもと、こぞって大阪労働学校の講師陣に参加し、当時他には見られない豪華スタッフが揃ったのです。
 労農派は、ソ連によるコミンテルン指導の下に再建された日本共産党に対抗した、雑誌『労農』の同人ですが、単一の無産政党「労農党」の結成を目指していました。同時に、ブレーンの研究者集団として「教授グループ」、さらに大原社研や大阪労働学校などの多様な社会的組織の協同・連帯の運動体だったように思います。とくに労働学校のような労働者教育を重視していましたが、それはまたロシア革命のようにプロレタリア独裁で国家権力を奪取し、上から社会主義を「外部注入」するボルシェビズム(マルクス・レーニン主義)を否定していたからです。あくまでも労働者や農民が、自主的・主体的に自らの「働き方」や「暮らし方」、そして「生き方」を変革して社会主義を実現する、そうしたモリスなどのアーツ&クラフツ運動を基礎にした「ハマスミス社会主義協会」などの教育実践を重視したのです。その点で大原社研と大阪労働学校は、労農派社会主義の貴重なモデルだったと思います。
 大阪労働学校に戻りますが、大原社研の協力を得て活動が充実しましたが、二村氏はそこで森戸辰男氏の活躍をあげています。「その一人として森戸辰男がいます。---彼は高野を助け、大阪労働学校の経営に非常な力を注ぎました。彼は第10期以降第45期まで13年間に亘って1回の休みもなく無給で講師を続け、また運営委員会にもほとんど皆出席です。彼がいなかったら大阪労働学校はもっと早くつぶれていたかも知れません。
 その森戸辰男は、戦後、片山内閣の文部大臣として教育改革に関与しました。その後も中央教育審議会の会長など、現在の日本の教育に大きな影響力をもってきました。彼にとっての教育、とくに社会教育の原体験は大阪労働学校でした。」戦後の教育の評価はともかく、森戸が日中戦争開始直後の第45期まで、つまり閉校まで大阪労働学校の教育、運営に協力した点は高く評価すべきでしょう。さらに森戸の研究面での業績ですが、森戸は有名な「森戸事件」で大内兵衛とともに東大を去りました。その時の研究は、アナーキストのクロポトキン研究でしたが、その後大原社研に移ってからの研究はウィリアム・モリスでした。その研究成果が、1938年(昭13)に大教育家文庫の『オウエン モリス』岩波書店刊として纏められています。最終章のタイトルは「教育史上におけるモリスの地位」です。
 森戸のモリス研究は、マルクスからモリスへの共同体社会主義にとって、教育の意義を重点的に研究したもので、特にモリスのハマスミス社会主義協会については、その政治的活動としてよりも、むしろ社会主義に関連した講義が行われ、「新しい学校」の教育活動として評価した貴重な研究です。そうした研究が、実は大原社研の大阪労働学校の森戸自身の教育実践に裏付けられたものだとすれば、ここにモリスから堺、山川、そして労農派社会主義の大阪労働学校への流れが確認できると思います。そしてまた、東北・花巻の賢治の羅須地人協会も、モリスのハマスミス社会主義協会の職人労働学校に連動して、大阪労働者学校とともに労農派の「新しい学校」としての農民芸術学校の貴重な実験だったと言えそうです。
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by kenjitomorris | 2013-08-08 11:04
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